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全米シニアOPで惜敗の藤田寛之 「遅咲き、早咲きではなく、同じスピードで」海外挑戦20年で花開いた“マイペース”の哲学
悪天候により順延になっていた米シニアメジャー第3戦「全米シニアオープン」の第4ラウンドが終了。再開時、首位だった藤田寛之(ふじた・ひろゆき)だが、イングランドのリチャード・ブランドに追いつかれ、プレーオフで敗れた。海外挑戦20年、何度跳ね返されても貫いた“マイペース”の哲学。
タイガーにサインをねだるほど無邪気だった初メジャー
ロードアイランド州のニューポートCCで開催された全米シニアオープンで、55歳の藤田寛之が勝利ににじり寄り、日本のゴルフファンの夢を膨らませてくれた。
しかし、5日間76ホールとなった長丁場を経て、軍配は英国出身の51歳、リチャード・ブランドに上がり、藤田はプレーオフでの惜敗に終わったが、彼が海外の大会に挑み始めてからのこの20年超の間、「ヒロユキ・フジタ」がこれほど強く長く注目を集めたのは初めてのことだった。
ゴルフは勝ってナンボだが、人生は勝ち負けより、貴重で希少な経験をしてナンボのものではないだろうか。
その意味では、藤田にとっても、日本のゴルフファンにとっても、この全米シニアオープンは忘れがたき戦いとなったはずである。
藤田の「海外挑戦記」の第1ページは、なんとも言えない始まりだった。
彼が初めてPGAツアーの大会に挑んだのは2002年のソニーオープン。そして、初めて海外のメジャー大会に挑んだのは05年の全英オープンだった。
“ゴルフの聖地”セントアンドリュースに前週から乗り込んだ藤田は、意気込みすぎたのか、逆に風邪をひいて体調不良となり、練習も思うようにできない状態に陥った。
しかし、王者タイガー・ウッズがコース入りすることを知った藤田は、憧れのウッズとついに同じ舞台に立つことがあまりにもうれしくて、体調不良にもかかわらず、「早起きして、早朝から練習場に行き、このバイザーにタイガーのサインをもらいました」。
その話を聞いた瞬間は、同じ試合に出場する選手同士でありながら、サインをもらうために、しかも体調不良にもかかわらず足を運ぶとは、「選手としてのプライドはないのだろうか」と少々驚かされた。
だが、あのときの藤田にとって、あの全英オープンは世界へのチャレンジの記念すべき出発点であり、サインをもらいに行った行動は、きっと彼なりの始まりの儀式のようなものだったのだろう。
「いつか息子が大きくなったときに、お父さんは昔、タイガー・ウッズと一緒に戦ったんだぞって、このサインを見せながら話してあげたいんです」
そんな藤田の想いは、とてもピュアなもので、ゴルファーである以前に一人の人間として生きる姿勢は、むしろ素敵に感じられ、そんな彼の海外挑戦を応援したいと思うようになった。
「海外挑戦は僕の最高の幸せで、最高のわがまま」
その全英オープンで41位タイになった藤田は、「メジャーで戦うことは、こんなにいいものなのか」と感動したそうで、それからの彼はチャンスがある限り、メジャー大会やビッグ大会、そしてPGAツアーの大会に挑むようになっていった。
しかし、結果はなかなか出せず、ほぼ毎回、がっくり肩を落として去ることになった。
41歳にして初めてオーガスタナショナルの土を踏んだ11年マスターズでは、開幕前に6ラウンドをこなす猛練習を積み、「自分なりのゴルフができる準備はした」。
その甲斐あって初日は14位タイの好発進。しかし、2日目は一転してボギーの連続で79と大きく崩れ、予選落ちとなった。
それでも藤田は「このマスターズで2つのことをもらいました。1つは、自分の技術では、ここでは、いっぱいいっぱいであること。もう1つは、ショットが安定すれば、自分もここで、それなりのゴルフができるということです」。
夢にまで見たマスターズに初出場し、実際に戦うまでは「夢すぎて何も現実的ではなかった」そうだが、予選落ちという現実を突き付けられたとき、初めて「やっと現実になれた」と、彼は苦笑した。
「今回はスタートラインでちょっと一緒にやらせてもらっただけ。ゴールはほど遠い。でも、これで終わりというつらさではないですからね」
その言葉通り、打ちのめされても終わりにはせず、その後も海外のメジャー大会、ビッグ大会に挑み続けた藤田は「海外挑戦は、僕の最高の幸せであり、最高のわがままなのかもしれない」と常に語っていた。
同時に彼は、自分の後に続く日本の若い選手たちの将来未来をいつも気にかけていた。
「海外のメジャーに出て、日本にはないような、すごいコースセッティングを経験すると、日本の若い選手たちのことが心配になる。自分はいろんなサポートを得て、こうして海外の試合にいろいろ出してもらっているけど、日本の若い選手たちがもっともっと海外の試合に出られるようなシステムが、もっともっとできてくれたらいいと心底、思います」
それは、ミドルエイジになって、ようやく海外試合に挑み始めた自分自身の反省の弁のようにも聞こえたが、おそらくは日本の先輩プロとしての責任感が彼にそう感じさせていたのだと私は思う。
藤田がPGAツアーに初めて挑んだのは02年のソニーオープンだったが、それから10年後の11年3月、ホンダクラシックで自身初のトップ10入りを果たし、大喜びした彼の姿は今でも脳裏に焼き付いている。
だが、せっかく波に乗り始めた翌週のキャデラック選手権で、東日本大震災のニュースが飛び込んできた。
試合会場だったフロリダ州マイアミのドラールリゾートでは、さまざまな情報が交錯し、米メディアは出場していた日本人選手に駆け寄っては、取材を求める混乱状態に陥った。
しかし、それでも試合は予定通りに行われ、早いスタート時間だった藤田はたくさんの不安を抱えながら黙々と戦った。そしてホールアウト後は数十人の米メディアに取り囲まれ、ほとんど「おしくらまんじゅう」のような状況下、自身の頭の中も混乱していたというのに、米メディアの質問に1つ1つ丁寧に答えていった姿には「世界の舞台に立てば、自分は日の丸を背負っている」と考える彼の日本人選手としての気概と責任感が溢れていた。
結果を求めすぎず、気負いすぎず、自分なりのペースとリズムで
米国でも英国でも、さまざまなアクシデントやハプニングを経験した藤田は、そのたびにいろんなことを学び、強く大きくなっていった。
日本ツアーでは、20歳代で1勝、30歳代で5勝、40歳代で12勝。年齢を重ねるごとに勝利数が増えた藤田は「レイトスターター」「遅咲き」のように見える。
しかし、彼自身は「遅咲き、早咲きではなく、僕はいつも同じスピードで走り続けているんだと思います」。
50歳の誕生日を迎えてからは、日本のシニアツアーで、すでに3勝。そして今回はシニアゴルフの最高峰、全米シニアオープンで優勝に手をかけた。
昔も今も走るスピードは変わっていないのだとすれば、同じスピードでありながら、なぜ今、彼はメジャー大会で勝利に近づくことができたのだろうか。
長年の挑戦を通じて学んだことを糧として、結果を求めすぎず、気負いすぎず、自分なりのペースとリズムで自分なりの戦い方をする楽しさを見い出したことは、彼を大きく成長させた最大の要因なのだろう。
「ゴールはほど遠い」と言っていた藤田だが、どんなに遠く見えても、無理にスピードアップせず、スローダウンもせず、ずっと同じスピードで走り続けることには、忍耐が求められる。
しかし、我慢して走り続ければ、どんなに遠かった距離もいつか必ず縮まり、いつかきっとゴールに辿り着くことを、藤田はこの全米シニアオープンで私たちみんなに示してくれた。
そして彼の海外挑戦記は「これで終わりではない」はずで、まだまだ続く彼の一定スピードの走りを、これからも眺め、エールを送りたい。
文・舩越園子
ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学客員教授。東京都出身。百貨店、広告代理店に勤務後、1989年にフリーライターとして独立。1993年に渡米。在米ゴルフジャーナリストとして25年間、現地で取材を続け、日本の数多くのメディアから記事やコラムを発信し続けてきた。2019年から拠点を日本へ移し、執筆活動のほか、講演やTV・ラジオにも活躍の場を広げている。
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