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藤田寛之を負かしてシニアメジャー2勝のブランドはリブゴルフ所属 “低値安定”のベテランをリブの環境が変えた!?
藤田寛之が最終ラウンドのバックナインまで首位を守っていた今年の全米シニアオープン。しかし、最後にはリチャード・ブランドに追いつかれ、プレーオフで敗れる結果となった。ブランドは現在リブゴルフの所属。シニアになって花開いた遅咲きのベテランはどんな選手なのか。
デシャンボーと合わせリブゴルフはメジャー3勝
今年の全米シニアオープンは55歳の藤田寛之が勝利に迫り、日本のゴルフファンはテレビ中継やネット速報に釘付けになった。しかし、4ホールに及んだプレーオフを経て勝者に輝いたのは、残念ながら藤田ではなく、英国出身の51歳、リチャード・ブランドだった。

もともとはDPワールドツアーの選手だったブランドは、2022年にリブゴルフへ移籍。同ツアーの最年長プレーヤーとして戦っている。そして、今年の全米オープンを制したブライソン・デシャンボーもリブゴルフ選手であり、24年のアメリカのナショナルチャンピオンシップは、レギュラー世代もシニア世代も、どちらもリブゴルフ選手の勝利という結果になった。
パワーと飛距離で群を抜き、すでに全米オープン優勝の実績を有していたデシャンボーが、今年再び全米オープンを制したことは、ある意味、誰もが「なるほど」と頷く結果だったように思える。
ブランドも、今年5月の全米シニアプロで勝利したばかりゆえ、シニアのメジャー大会で2連勝という結果だけを見て「絶好調だったのだな」と結論づけることはできる。
しかし、その2連勝に至るまでには、四半世紀以上にわたる長い長い歳月があり、その間、ブランドは終始、「ほとんど無名」の売れないプロゴルファーだった。
そんなブランドによるシニアのメジャー2連勝は、「無名」から「世界最強シニア」への「突然変異」と呼びたくなるほどの劇的変貌だった。
一体、何がブランドをそれほど大きく変えたのか。デシャンボーに続きブランドもアメリカのナショナルオープンを制したことを考えれば、その秘密はリブゴルフのどこかにあるのではないか。そう思えてならない。
英国出身のブランドは1996年にプロ転向し、欧州下部ツアーのチャレンジツアーからキャリアをスタートした。そして、一軍の欧州ツアー(現在のDPワールドツアー)に昇格してはシード落ちし、Qスクール(予選会)を経て再び這い上がることを繰り返す生活を20年以上も続けていた。その間、優勝は一度もなく、欧州メディアは皮肉を込めて「最も安定的なベテラン選手」などと呼んでいた。
だが、安定して勝てなかった生活に変化が起こったのは2021年5月。DPワールドツアーのベットフレッド・ブリティッシュマスターズで悲願の初優勝を挙げた。プロ転向から実に26年、478試合目でようやく勝利したブランドは、そのとき48歳。DPワールドツアーで最年長の初優勝者となった。
その功績で世界ランキングが大幅アップしたブランドは、翌月の全米オープン出場資格を獲得。彼にとっては生涯でわずか3度目のメジャー大会出場だったが、2日目を終えたとき、単独首位に立っていたのは、驚くなかれ、ブランドだった。
生まれて初めて眩しいスポットライトを体中に浴びながら夢見心地だったブランドは、初日も2日目も好プレーを披露。しかし、3日目は77、最終日は78と大きく崩れ、終わってみれば50位タイ。勝利をさらったのはジョン・ラームだった。
もはや誰からも注目されず、忘れられた存在となったブランドは「最初の2日間は夢のようだった。決勝2日間は少々残念だった。でも、前半2日間を後半2日間より多く記憶にとどめればいい」と穏やかな笑顔で語った。
そして、「私が好きな言葉は『決して諦めない。決してやめない』だ」と付け加え、トーリーパインズから去っていった。
「エントリーも準備も心積もりも、何もしていなかった」
翌22年、ブランドは49歳でリブゴルフへ移籍。23年に50歳の誕生日を迎えたが、リブゴルフ選手ゆえに、PGAツアーのシニア部門であるチャンピオンズツアーに出場することは叶わなかった。
今年も基本的にはその状況は変わってはいないのだが、5月の全米シニアプロにはスポンサー推薦による出場が叶い、それがブランドのシニアデビュー戦となった。
その段階では、6月の全米シニアオープン出場資格は持っておらず、「エントリーも準備も心積もりも、何もしていなかった」。
しかし、デビュー戦となった全米シニアプロで初優勝を飾ったことで、翌月の全米シニアオープンへの出場権を獲得し、藤田をプレーオフで抑え込んで見事に勝利。ピンをヒットして、カップから2センチに止めた76ホール目のバンカーショットは、圧巻だった。
プロ転向から28年。「無名選手」「売れないプロ」「稼げないプロ」と呼ばれながらも「決して諦めない」「決してやめない」を信条に掲げ、ゴルフクラブを振り続けてきたブランドは、ここへ来て、あれよあれよという間にシニアのメジャー大会2連勝を達成。「世界最強のシニア選手」になっている。
ここ数年、ブランドが何より気にかけているのは、7年ほど前から闘病が続いている兄ヒースの体調だ。近年は大腸がんと診断され、「15時間の大手術を受けた」。今年5月の全米シニアプロの週には、今度は肺がんと診断され、ブランドはさらに心を痛めていた。
「でも、今回は大手術にはならないらしく、それは不幸中の幸いで、何よりの朗報だった」
そんなブランドの兄への想いを聞き入れた勝利の女神が、シニアのメジャー2大会ではブランドにエクストラ・パワーを授けたという側面は、きっとあったのではないだろうか。
「デシャンボーやラーム、DJと同じ部類なのだと心底思える」
だが、それとは別に、ブランドをこれほど強い選手に変えた現実的な要因はきっとあったはずであり、それは何だったのかと考えたとき、リブゴルフ移籍を境に彼が大きく変わったと見るのが自然で妥当だと私は思う。
リブゴルフのHPによれば、ブランドの所属チームである「クリークスGC」のキャプテン、マーティン・カイマーは、ブランドが強くなった理由を、こんなふうに語っている。
「リブゴルフではチーム戦もあり、僕たちクリークスのメンバーは、とても仲良しだ。リチャードは親しみやすい人柄ということもあり、チーム戦で競い合うときも、練習するときも、ディナーに行くときも、チーム全員で一緒に行動している。そういう集団行動は、PGAツアーやDPワールドツアーにはなかったことで、それが、リチャードが強くなる上で大きく役立っていると僕は思う」
ブランド自身も、リブゴルフに移籍したことが、自分の考え方や感覚を変えてくれたのだと明かしている。
「DPワールドツアー時代の私は、デシャンボーやラーム、DJ(ダスティン・ジョンソン)らと同じ舞台に立ったのは、1年に1度か2度しかなかった。でも今は、ほぼ毎日毎週、スター選手たちと同じ舞台に立ち、一緒に行動するリブゴルフに身を置いていることで、自分も彼らと同じ部類に所属しているのだと心底思える。そう思うことで、自信が沸いてくる」
3年前の全米オープンで予選2日間を単独首位でリードし、「夢のようだった」と感じたブランドは、夢から覚めた決勝2日間では大崩れして50位タイに終わった。
だが、リブゴルフへ移籍し、スターが勢揃いしている状況が彼の日常と化したことで、それが彼の考え方や感覚を変え、スポットライトを浴びることが「夢」ではなく「現実」だと思えるようになっていた。
私もトッププレーヤーの1人なのだ――そう信じられる選手になってシニアのメジャー2戦に臨んだブランドは、だからこそ、トッププレーヤーらしい落ち着きを保ち、熟練の技を存分に発揮して見事な勝利を挙げることができた。
その変貌は、日本の熟練選手、藤田をわずかに上回る強さと化していた。ブランドが見せた76ホール目の奇跡のようなバンカーショットは、リブゴルフへ移籍して得た彼の変貌の集大成だったように思う。
文・舩越園子
ゴルフジャーナリスト/武蔵丘短期大学客員教授。東京都出身。百貨店、広告代理店に勤務後、1989年にフリーライターとして独立。1993年に渡米。在米ゴルフジャーナリストとして25年間、現地で取材を続け、日本の数多くのメディアから記事やコラムを発信し続けてきた。2019年から拠点を日本へ移し、執筆活動のほか、講演やTV・ラジオにも活躍の場を広げている。
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