- ゴルフのニュース|総合ゴルフ情報サイト
- 記事一覧
- コラム
- 初出場はなんと「昭和4年」!ソニーオープン・イン・ハワイと日本人プロの長くて深い歴史
毎年、多くの日本人プロが出場しているソニーオープン・イン・ハワイ。その歴史は非常に古く90年以上前に日本人プロが初めて海外挑戦したトーナメントでもあった。
昭和4年、初出場の宮本留吉が最終日最終組で奮闘
今週の米ツアーはハワイ・オアフ島のワイアラエCCで行われるソニーオープン・イン・ハワイだ。
先週のセントリー・トーナメント・オブ・チャンピオンズに続く2022年2戦目だが、同大会は昨季の優勝者のみがプレーできる出場人数の少ない特殊なトーナメント。通常のトーナメントとしては今年初で、いよいよ本格的に米ツアーが始動するという感覚だ。
ソニーオープン・イン・ハワイは、かつてはハワイアンオープンと呼ばれていた。1983年には青木功が日本人選手として米ツアー初優勝を果たしたトーナメントとして日本のゴルフファンには馴染み深いが、それだけではなく古くから日本人選手と深く関わっている歴史がある。
90年以上前の話になるが、日本人プロゴルファーが初めて挑んだ海外のトーナメントがハワイアンオープンだった。1929年、和暦でいうと昭和4年の11月のことだ。
ハワイアンオープンが米ツアーに組み込まれるのは1965年のこと。1929年当時はまだローカルトーナメントだった。
それでも後に史上初のグランドスラマー(メジャー4大会すべてで優勝)となるジーン・サラゼンや、この2年前に全米オープンで優勝しているトミー・アーマーらビッグネームが米国本土から多数参加。
日本からは当時27歳の宮本留吉と24歳の安田幸吉が10日以上の長い船旅を経て異国の地へ足を踏み入れていた。
会場は現在と同じワイアラエCC。コース自体にもそれだけの歴史があるわけだ。
右も左も分からない中で、当時日本の第一人者だった宮本が奮闘した。
2日間36ホールを終えて何と首位のホートン・スミスから3打差の3位につけたのだ。スミスはこの年、アメリカで8勝と絶好調。2位のクレイグ・ウッドも前年の全米プロに優勝している強豪だ。
36ホールをプレーする最終日、宮本はこの上位2人と同組となった。いわゆる、最終日最終組である。昭和の初期に日本人選手がこんなすごい活躍をしていたのだ。結果的に宮本は崩れて13位に終わったが、今につながる大きな一歩を記したのである。
そこから50年近い時を経て、1977年には村上隆が3打差の2位に入っている。これは米ツアーにおける当時の日本人選手最高位。
村上はこの2年前に国内で唯一無二の年間グランドスラム(日本オープン、日本プロ、日本シリーズ、日本プロマッチプレーと日本と名のつく4大会すべてで優勝)を成し遂げた選手。その実力者が青木の前に米ツアー初制覇に最接近していたのだ。
そして1983年に青木が18番パー5の第3打をカップインさせる劇的イーグルで優勝を決めた。日本人選手が初めて出場した海外トーナメントであり、初めて米ツアー優勝の金字塔を打ち立てたトーナメントでもあるソニーオープン・イン・ハワイには、もうひとつ日本人選手にとっての「記録」がある。
通算13回の日本人トップ10入り 最多は丸山茂樹の4回
それは、米ツアーの中でトップ10に入った日本人選手が最も多いトーナメントであるということだ。
データの残る1970年以降になるが、その数は通算13回。詳細は以下の通りだ。
1977年 村上隆 2位
1981年 青木功 3位
1983年 青木功 優勝
1984年 倉本昌弘 10位
1986年 青木功 9位
1989年 高橋勝成 8位
1994年 奥田靖己 8位
2000年 丸山茂樹 9位
2001年 尾崎直道 5位
2003年 丸山茂樹 7位
2005年 丸山茂樹 3位
2011年 丸山茂樹 7位
2014年 谷原秀人 8位
最もトップ入りが多いのは丸山茂樹で4回。2005年には1打差首位で最終日を迎え、米ツアー4勝目の大チャンスだったがビジェイ・シンに逆転されて2打差の3位に終わった経験もある。
青木も優勝する2年前の3位など、計3回のトップ10入りを果たしている。
ただ、あの選手の名前が見当たらない。そう、日本が誇るマスターズチャンピオン・松山英樹だ。
松山はアマチュアだった2011年からソニーオープン・イン・ハワイに出場している。アマチュア時代の3回はすべて予選落ち。プロになってからは5回出て2020年の12位が最高順位なのだ。あれだけの実力を誇りながら、どうにも相性が良くない。
松山は今年も出場予定。今度こそ活躍する姿を見たい。日本人選手はほかに小平智、星野陸也、金谷拓実、石過功一郎、アマチュアの中島啓太がエントリー。強力布陣で上位を狙っていく。
最新の記事
pick up
ranking