名物ホールは16番、されどフェニックスオープンの本当の魅力は別にある【舩越園子の砂場Talk】

名物ホール16番パー3の熱狂ぶりやメジャーをしのぐ観客動員数にばかり注目が集まるウェイストマネジメント・フェニックスオープンですが、本当の魅力は別にあると、現地で何度も取材をしてきたゴルフジャーナリストの舩越園子氏は言います。

はじまりは「町興し」だった

 先週、アリゾナ州のTPCスコッツデールで開催された米PGAツアーの大会、ウェイストマネジメント・フェニックスオープンは、スポンサー推薦で出場した24歳のルーキー、サーヒス・シーガラが初出場にして初優勝に王手をかけたが、71ホール目でボギーを喫し、悔し涙が止まらなかった。優勝争いはサドンデス・プレーオフにもつれ込み、勝利したのは25歳の米国人、スコッティー・シェフラーだった。ツアー3年目、キャリア71試合目で初優勝を達成し、うれし涙を流した。

2018年フェニックスオープン、キャップにグリッフィン・コネルくんのバッジをつけて戦ったリッキー・ファウラー 写真:Getty Images

 この大会の来場者数は、コロナ禍以前の2020年には延べ70万人超の新記録を更新。今年は「大観衆と賑わいが戻ってきた」と、選手も関係者もうれしそうだった。メジャー4大会を見ても、これほどの観客動員数を誇るゴルフの大会は他にない。ギャラリー数ばかりでなく、大観衆の拍手と歓声、ボルテージの高まり方も破格である。

 なぜ、フェニックスオープンは、毎年、それほどの賑わいを見せ、それほど大勢の人々が集まるのか。

 その答えは、同大会の歴史と歩みの中に隠されている。

 フェニックスオープンの誕生は、実に90年前まで遡る。1932年、アリゾナオープンとして発足した同大会は、1935年にフェニックスオープンと名称が変更されたのだが、歴史的変化が起こったのは、それから間もなくのことだった。

 37年、フェニックス市の商工会議所として結成されていた「サンダーバーズ」は、その役割を市内で開催するイベントや観光業にまで拡大し、活性化を図ろうとしていた。

 サンダーバーズのメンバーの1人で大のゴルフ好きだったボブ・ゴールドウォーター氏は、「フェニックスオープンをサンダーバーズがスポンサードして盛り上げれば、それが町興しにもなるのではないか?」と考え、動き出した。

 最初のうちは自分たちでチケットを売りさばき、市民からボランティアを募って大会運営スタッフを務めてもらうという小規模な手作りイベントだった。だが、いつしか「市民による市民のためのゴルフフェスティバル」として親しまれるようになり、来場者数は年々増加していった。

 開催コースはアリゾナCCとフェニックスCCを行ったり来たりした後、87年からは現在のTPCスコッツデールになり、起伏に富んだ地形、緑の芝とバンカーの白砂の美しいコントラストが一層多くの人々を引き付けるようになった。

 大規模なギャラリースタンドやコーポレートテントが年々増設され、スタジアム型に造り上げられたパー3の16番は、まるでコンサート会場のように拍手と歓声が響き渡る名物ホールとなり、ゴルフトーナメントというより、フェスティバルとしての賑わいと興奮を演出するようになった。

 見事、グリーンを捉えれば大拍手と大歓声。グリーンを外せばブーイングの嵐。その喧騒を楽しいと感じる選手もいれば、どうしても好きになれない選手もいる。興奮の中、酔っ払った観客の問題行動が多発したため、このホール近辺ではアルコール販売が禁止され、ティーショット後にキャディーたちがグリーンめがけて猛ダッシュする恒例行事の「駆けっこ」も2013年大会を最後に姿を消した。

 しかし、このホールでは相変わらず大観衆がやんややんやの大騒ぎを楽しんでいる。コース内のあちらこちらで音楽が鳴り響き、大勢の人々がゴルフ観戦そっちのけでダンスに興じる一角もあり、フェニックスオープン独特のゴルフらしからぬ賑わいは、昔も今も不滅だ。

松山英樹も立役者の1人

 大会の歴史や会場の素晴らしさと相まって、フェニックスオープンを盛り上げてきたのは、やっぱりそこで活躍した選手たちだ。

 プロデビューしたばかりだったタイガー・ウッズが1997年大会の3日目に16番でホールインワンを達成したとき、興奮した人々は手にしていた飲み物のカップを次々にグリーンへ投げ入れ、大騒ぎになった。

 もちろん、そのときは「うれしい大騒ぎ」だったのだが、99年大会では16番のギャラリーの中に拳銃所持者が見つかって「恐怖の大騒ぎ」となり、ウッズは2001年大会を最後にこの大会を避けるようになった。以後は15年に一度だけこの地に戻ってきたが、結局、ウッズのフェニックスオープン出場はわずか4回しかなく、勝利したことは1回もない。

“その代わり”というわけではないが、フェニックスオープンの立役者となってきたのはフィル・ミケルソンだった。アリゾナ州立大学出身で、卒業後もこの地に住み、「アリゾナは僕の第2の故郷だ」と言っていたミケルソンは、1996年大会を皮切りに2005年大会、13年大会を制し、合計3回の勝利を挙げて最大の人気を誇っていた。

 そして近年は、15年にブルックス・ケプカが勝利し、16年と17年は松山英樹が連覇を達成。18年にはゲーリー・ウッドランドが初制覇。16年大会で松山に破れたリッキー・ファウラーは19年大会で勝利し、17年大会でやはり松山に破れたウェブ・シンプソンは20年大会で雪辱を果たし、21年にはケプカが2度目の勝利を飾るなど、ドラマチックな展開がフェニックスオープンを一層盛り上げてきた。

難病の2歳児やダウン症の大学生とのふれあい

 しかし、フェニックスオープンが長年、何十万人もの人々を引き付ける本当の魅力は、この大会が「市民に寄り添う市民の大会」であり続けていることだ。

 フェニックス市の「町興し」のために、みんなが力を合わせて盛り上げてきたこの大会は、だからこそ、今でも市民がサンダル履きでやってきて散歩を楽しんだり、ゴルフを知らない若いカップルがデートの場として訪れたり、ゴルフとは無関係に家族揃ってピクニックを楽しむ場にもなっており、そういう意味で「ゴルフの大会らしからぬ大会」としての魅力が溢れているのだ。

 選手と市民との心温まる交流のストーリーが次々に登場してきたことも、フェニックスオープンという大会がそうさせたように感じられてならない。

 ファウラーは13年大会の試合中、コース沿いの丘の上でソリのような乗り物の上から笑顔で手を振る2歳の男の子、グリッフィン・コネルくんを発見。「この子は生まれつき気道に障害があり、言葉を発することができないけど、大のリッキー・ファンなんです」と父親から紹介され、以来、ファウラーはグリッフィンくんと交流を持ち続けていた。

 しかし、18年大会直前にグリッフィンくんは7歳で他界。ファウラーは彼の写真を付したバッジをつけて優勝争いに絡み、残念ながらそのときは最終日に勝利を逃がしてしまったが、翌19年大会を見事に制し、天国に逝ったグリッフィンくんに勝利を捧げた。

 18年大会の覇者となったウッドランドは、ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ翌年大会のプロアマ戦で、州内のコミュニティカレッジに通うダウン症の女子大生、エイミー・ブロッカーセットさんとともに名物ホールの16番をプレーした。

 ウッドランドが心配そうに見守る中、彼女はバンカーに入っても「大丈夫。出す!」と言い切った。そしてバンカーからピン2メートルに付けると「大丈夫。入れる!」と言い切り、見事、パーセーブ。

 成功だけを信じるエイミーさんの笑顔とポジティブな姿勢に、「僕は心を打たれ、すごいと思った」。以来、ウッドランドとエイミーさんの交流が始まり、その年の全米オープンで優勝争いに絡んだウッドランドは、エイミーさんからの激励メールに勇気づけられ、悲願のメジャー初制覇を成し遂げた。

 選手たちが素晴らしいゴルフを披露するだけではなく、選手と人々の心が通い合い、みんなの人生に笑顔がもたらされる。そういう場になっているからこそ、フェニックスオープンは広く深く愛され、毎年、大勢の人々が訪れて、ゴルフらしからぬ賑わいがもたらされる。

 それが、フェニックスオープンの本当の魅力だと私は思っている。

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今年のフェニックスオープン最終日、アリゾナらしいサボテンの前でショットを放つ松山英樹 写真:Getty Images
2017年のフェニックスオープンで4ホールに及ぶプレーオフを制し、ガッツポーズの松山英樹 写真:Getty Images
写真はコロナ禍が世界を覆い尽くす前の2020年フェニックスオープン16番パー3の様子 写真:Getty Images
写真はコロナ禍が世界を覆い尽くす前の2020年フェニックスオープン16番パー3の様子 写真:Getty Images
2018年フェニックスオープン、キャップにグリッフィン・コネルくんのバッジをつけて戦ったリッキー・ファウラー 写真:Getty Images

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