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“1ドル=240円時代”米ツアー取材の過酷実態とは!? 昭和のゴルフ記者は“命の危険”を冒して岡本綾子を追った【小川朗 ゴルフ現場主義】
輸入品の高騰により生活に大打撃を与えている記録的な円安ですが、今から40年前は1ドル=240円の時代。しかし、1983年には青木功がハワイアンオープンで優勝し、女子でも岡本綾子が米ツアーで活躍。現代の私たちからすればめまいがするほどドルが高くとも、ゴルフ記者は渡米取材を敢行しないわけにはいかなかったのです。
モーテルのドアを破ろうとする黒い影…
1ドル160円近い円安が続いています。恩恵を受けている自動車などの輸出関連業種は好調ですが、輸入業種や海外旅行代理店からは悲鳴が上がっています。
今、絶好調のインバウンド市場を支えているのは「行き過ぎた円安」。その恩恵を外国人旅行者たちが実感しているからにほかなりません。それはゴルフ業界も同じで、海外からの旅行客を受け入れているゴルフ場はウレシイ悲鳴を上げていますが、ゴルフクラブなどを輸入している関係者は厳しい状況に置かれています。
海外に渡航する日本人も同様で、ホテル代や食費などにドル高が重くのしかかります。ちょうど40年前の1984年、プラザ合意直前の米国で日本人特派員を直撃していたのも、まさに「行き過ぎた円安」でした。昭和の円安と令和の円安の違いについて考えてみます。そこから見えてくるものとは――。
※ ※ ※
「カチャ……」。足元の方でした音で目が覚めました。目をこすりながら枕もとの時計を見ると、午前2時20分。続いて聞こえてきた「ガチャガチャ」という音の方に目をやると、鍵をかけたはずのドアがピーンと張ったチェ―ンの分だけ開いています。そこに大きなハサミのような形をした工具が差し込まれていました。
何が起きているのか。寝ぼけた頭で考えた数秒後、戦慄と恐怖が同時に襲ってきました。自分がどこにいるのか。思い出したからです。
時は1984(昭和59)年2月2日の未明。場所はアメリカの南端、フロリダ州最大の都市マイアミの安モーテルの1室での出来事です。アメリカにはよくある造りの2階建て。客室のドアは駐車場側に並んでいました。開ければすぐに外、ということです。確か一晩29ドル99セントという看板が街道沿いに出ていた気がします。
異変に気付いた瞬間、受話器を取りフロントに電話。「コール・ザ・ポリス!(警察呼んで)」と話すと「OK! ワンモーメント!」と返答してくれました。ドアに視線を戻すと、強盗はチェーンの切断をあきらめたのか、すでにいなくなっていました。
その夜宿泊していたのは、外階段から上がってすぐの部屋でした。カーテンから外を覗いてみると、駐車場の真ん中にヘッドライトをつけたままの、古いセダンが止まっていました。目を凝らしてみると、男が一人立っています。その手にはショットガンのようなものが握られていました。見張り役であるのは明らかで、逃走に備えて運転席のドアを開けていました。
それから数分後、2人組の男が全速力で走ってきて、車に飛び込んで逃げていきました。それと入れ替わるようにパトカーが滑り込んできましたが、時すでに遅し。犯人を検挙するには至りませんでした。
もしこの日、チェーンロックをかけ忘れていたら、殺されていたかもしれません。結局この日、まどろんでは目が覚めることの繰り返しで朝を迎えてしまいました。
プロゴルファーが襲われた殺人事件も
しかし、夜が明けてしまえば仕事は待ってくれません。この日は木曜日。4日間トーナメントである米女子ツアー「エリザベス・アーデン・クラシック」の大会初日です。岡本綾子選手と日陰温子選手が出場しており、試合の結果を東京の本社に送らねばなりません。プレスセンターで寝落ちしそうになりながら、何とか仕事を終えたのを記憶しています。
日中、マイアミのショッピングモールに出かけ「Radio Shack」という電気店で、赤外線の防犯用アラームを買ったのを記憶しています。その前を人や動物が通ると、反応してアラームがなるというスグレモノ。これを毎晩、ドアのところに置いておくことにしました。しかし、いかんせん安モーテルであるため、部屋が狭いのです。そのため夜中に起きてトイレに行く際、自分が赤外線の網に引っかかってしまい、アラームが鳴り響き心臓が止まりそうになる経験を何度もしました。そんななか週末を迎え、試合は岡本選手が13位タイ、日陰選手が34位タイという成績で終了しました。
強盗襲来の瞬間、激しく動揺した原因が、実はもう一つありました。1週間前の1月26日、24歳の現役女子プロゴルファーであるジュリー・ウォルドが、フロリダの自宅で惨殺される事件が起きたばかり。フロリダ州ゲインズビルの自宅アパートで18歳の男性に斧で惨殺されたという事件を取材して、東京の本社に送ったばかりだったのです。
実は私も、この日が24歳の誕生日。同い年の被害者は岡本選手の親友であるパティ・リゾ(マイアミ大出身)の後輩でもあり、悲しみに打ちひしがれる姿を見て胸が痛みました。マイアミのダウンタウンは相当に物騒なところで、1990年には豪州の有名女子プロであるジャン・スティーブンソンも、NBAの試合観戦に行った際に駐車場で暴漢に襲われ、左手薬指を負傷する事件も起きています。
長々とこんなことを書いたのは、これほど危険なマイアミのダウンタウンの、安モーテルに泊まらざるをえなかった原因が円安にあったからです。当時、私が所属していた東京スポーツ新聞社の海外出張規定は1日2万5000円およびレンタカー代は週300ドルというもの。米国内で移動の航空運賃はクレジットカードで支払い、帰国後に精算というものでした。
当時は1ドル240円の時代。1泊100ドルのところに泊まったらほとんど残りません。昼食はゴルフ場でランチバイキングがありますが、朝夕の食事代も含まれます。となれば宿泊費ではできるだけ抑えておきたいという懐事情からの選択だったわけです。
確かソフトドリンクが1ドルで1本240円、当時吸っていたマルボロライトが1ドル75セントだから420円。日本で缶ジュースは100円、セブンスターは200円だった時代です。ジュースが2.4倍、タバコが2.1倍という時代でしたから、高いホテルには泊まりたくとも泊まれなかったのです。
米ツアーで日本企業のロゴが躍るほど高まる反発
一方で円安は日本のメーカーにとって輸出への完全な追い風となります。日本企業の米国進出が相次ぎ、LPGAツアーをマツダが年間シリーズとしてスポンサー契約を結び、開幕戦と日本での最終戦の冠スポンサーとして名を連ねます。さらに京セラやユニデンなど他の日本企業も、カリフォルニアでトーナメントを主催しました。
男子も前年に青木功選手がハワイアンオープンで128ヤードを直接叩き込む大逆転イーグルで日本選手として米ツアー初優勝を飾ったばかり。1984年シーズンは開幕戦をセイコー、4試合目がいすゞ、8試合目がホンダ、9月にパナソニックと、日本企業が4試合をスポンサードしていました。その後もロサンゼルスオープンを日産、ハートフォードオープンをキヤノン、ワールドシリーズをNECやブリヂストンがスポンサードするなど、日本企業の進出はめざましいものがありました。
しかし、それはアメリカ人のプライドを強烈に刺激します。当時はロナルド・レーガン政権で、大統領自らがTVコマーシャルに出てきて「バイ・アメリカ(アメリカ製品を買おう)」と訴えていました。日本企業の攻勢が、米国企業不振の一大要因としてクローズアップされていました。
「日米貿易摩擦」「ジャパンバッシング」という言葉と、米国人労働者が日本車をハンマーで叩き壊す写真を教科書の中で目にした方もいるかもしれません。日本人記者への風当たりも強くなります。岡本選手が優勝を飾ったロチェスター(ニューヨーク州)はニコンやキヤノンに押されるコダックの本拠地。トヨタや日産、ホンダに蹂躙される自動車の町・デトロイト(ミシガン州)やブリヂストンの攻勢を受けるタイヤの町、アクロン(オハイオ州)などでは「お前ら日本人のおかげで職を失った」などと言いがかりをつけられることもしばしばありました。
翌1985年9月22日、米国の呼びかけで先進国5カ国(日・米・英・独・仏=G5)の財務大臣と中央銀行総裁がニューヨークのプラザホテルに集まり、会議が開催されました。プラザ合意の狙いは、ドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことにありました。
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