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「僕が望んでいたのはこれなんだよ」 ジャンボはスランプのさなか米ツアーに飛び込んだ 三田村昌鳳が“アメリカ2人旅21日間”で見た人間・尾崎将司
2025年12月23日に逝去した日本ゴルフ界最大のスター、尾崎将司。日本のゴルフジャーナリズムを長くけん引してきた三田村昌鳳氏は尾崎がスランプに陥っていた時期に米ツアーを2人で旅した経験を持つ。三田村氏が見た人間・尾崎将司とは?
ジャンボは「スランプ」という言葉を一度も使わなかった
巨星墜つ。プロゴルフ界のスーパースターであるジャンボ尾崎こと尾崎将司が、この世を去った。78歳。最近は、若手、特に女子プロゴルファーの指導で大活躍だった。
もっともっとジャンボが培った技量のすべてを若い選手たちに伝授してほしかった。
「体・技・心」とジャンボはずっと言い続けていた。「プロフェッショナル・ゴルファーは、健全な肉体に健全なスイングが宿る。そのための体づくり。そのあとにスイング。そして心を宿すんだよ」。それらは、尾崎がスランプと呼ばれた時期に、強く語っていた言葉だった。
1980年前後。尾崎はスランプに陥った。でも、その3年あまりの間、尾崎は「スランプ」という言葉を一度も使っていかなった。
「どっぷりつかって、充電しようと思ったんだ。初心にかえるのではなく、これから先を考えて、自分に不足している部分、ぜい肉のついた部分を見つめてオーバーホールする。従って、僕はあの頃を《スランプ》とは呼んでいないし、自分で思ってもいない。いわば《充電期間》だったんだよ」

この充電期間に、当時、習志野にあったジャンボ邸に僕は足繁く通った。この人が、この充電期間をどう過ごすのだろうと見てみたかったからだ。
いまから思えば、この時期は悲観的な、悲壮感すら尾崎は持ち合わせていなかった。むしろ、自分が遙か先の目指している「何か」に向かって、黙々と積み重ねていこうという情熱を感じた。
悩み抜いたり、苦しんだりしたのは、その後、40歳をすぎてから数々の優勝をしていた絶頂期だった。これが凡人と違うジャンボ尾崎の人間性の真髄だったと思う。
外側から見れば、絶不調の時期。1980年の暮れのことだった。
尾崎の自宅の書斎でふたりきりで雑談していると、急に、ジャンボが呟いた。
「来年、アメリカへ行ってみようと思うんだ」
その言葉を聞いたとたん、僕は、何故いまなのかと思った。こんな絶不調のタイミングで米ツアーに行っても、いい成績なんて残せない。
「いまの米ツアー、トーナメントが最高の技術の集まり、舞台だろ、そこで感じてみたい。いまの自分が目指すものは何か、足りないものは何か、そういうものを肌で感じたいんだ」
翌年2月。ハワイからロス。そしてフロリダへと転戦が始まった。僕は、ロサンゼルスオープンを見たあと、尾崎のマネージャーも誰もなく、一人ぼっちになってしまうフロリダへと21日間同行した。朝。まだ太陽のない暗い中で、無言のままコースへ向かう準備をする。夜は、メニューをにらんで想像通りのものが来るのを期待しながら料理を待つ。いつも二人で三人前をたのむ。
「ハンバーガー。日本じゃ食べたことない。でもこっちだと平気で喰える。うまいんだよな……」
尾崎は、いかにも尾崎らしく豪快に、そして普段は見せないデリケートな部分と、さまざまなアングルを見せていた。
部屋を真っ暗にして、その上にアイマスクをしないと眠れない
フロリダに着いたその日。オーランド、ベイヒルCC近くのホテルの尾崎の部屋で、尾崎は語り始めた。
「百聞は一見にしかず。このベイヒルCCを見てよくわかっただろう。僕が望んでいたのはこれなんだよ。ほんと、よく見て、書いて欲しいんだ。こういうコースの中で戦って行きたいんだ。いい? まず距離がたっぷりある。ショート・ホールだって最低で198ヤード。長いのは230ヤード。ロング・ホールも、単に長いというのではなく戦略的に憎いほどよくレイアウトされている。
やっぱりゴルフの試合というのは、14本のクラブを全部使いこなしてコース攻略を考えるのが面白いんだ。 日本で僕が最近コースに対して不満をいいだした。それが弁解に聞こえているのかもしれないけど、そうじゃないんだ。トライバーにショート・アイアンだけで終わってしまうんじゃ、やっぱりだめだと思う。ミドル・ホールにしても、ドライバーで次が4番とか3番アイアンでグリーンを狙って行かなければならない。プロの戦いなんだから、全てのクラブを使えるコースで、それを見せることによってファンは喜ぶし選手もハッスルする。
こっちは日本のようにアプローチとパットだけの勝負じゃない。まず、ティー・ショット。ナイス・ショットして遠くへ正確に打てば拍手をしてくれる。そして第2打。ギャラリーは何番でどう攻めて行くかという予想をしながら見てくれる。例えば、ドライビング・アイアンでグリーンを狙えば、そのクラブの難しさも知っているわけ。だから興奮してくれる。コースが長くて戦略的なレイアウトだと、ミスしたときにリカバーするのも難しい。だって第2打で持つクラブがショートアイアンでなくロング・アイアンだから高い技術が要求される。そこなんだ、僕の目指しているのは……」
ホテルのコネクティング・ルームを挟んで、尾崎と僕が泊まり、朝は、僕が目覚まし時計の代わりに、ドアを大きくコツンコツンと叩いて「朝ですよー」と起こす。朝がめっぽう弱いのは、僕のほうだ。でもスタート時間とその前の練習時間を加味して、決められた時間に起こさなければいけない責任があった。
ノックしたときには、尾崎は、その前から起きていた様子だ。部屋を真っ暗にして、その上にアイマスクをしないと眠れないというジャンボだった。
その試合で、ニクラウスは自分のヘリでやって来た。
「当然だよね。あの人が、ああいうことをしても不思議じゃないと思う。人間というのは自己満足とか、自分を燃やすためにいろんなことをやらなければいけない。一生懸命働いて節約して、お金ばっかりためてしまっては、夢なんかつかめやしないんだ。
例えば、いいものを自分で買えば、また新しい意欲がわいてくる。それがまた、その先のことにプラスになると思う。僕がロールス・ロイスを買ったら生意気だという人もいるかもしれないけど、憧れのものってあると思う。それをどう本人が、どれだけの感覚で取り入れて行くかだね。
僕たちは、プロのスポーツマンだから、憧れの対象にならなければいけないと思う。
だから僕らの仕事は、ゴルフでもプライベートでも、純粋な憧れを与えなければいけないと思うんだ」
僕が、尾崎のスランプの時期に垣間見た数々のシーンは、その後のジャンボ尾崎の快挙、40歳を過ぎてから63勝を果たしたという現実に見てとれる姿となっていった。当時、ジャンボ尾崎の中に潜む、高い目標、もっと大きなゴルフを目指すという体内に宿っていた夢と生き様の原点が、このスランプの時期の海外遠征だったのだと思う。
ジャンボ尾崎は、非凡で計り知れないスーパースターだった。
文・三田村昌鳳
1949年神奈川県逗子市生まれ。立正大学仏教学部を経て、週刊アサヒゴルフ副編集長ののち、1977年に独立。スポーツ編集プロダクションS&Aプランニングを設立し、所属する山際淳司氏とともに「Number」創刊にも関わる。著書に「タイガー・ウッズ伝説の序章」「伝説創生」「ブッダに学ぶゴルフの道」など。日蓮宗の僧侶(神奈川県逗子市・法勝寺)としての顔も持つ。
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