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ジャンボ尾崎が“石像”になった!? 異常なグリーンと重圧が生んだ、日本ゴルフ史に残る一日【小川朗・後世に残したい記憶】
1988年日本オープン最終日。ジャンボ尾崎が18番で70センチのパットを決めて頂点に立ちました。昭和最後の日本オープンで起きた出来事を、当時の証言とともに振り返ります。
今回から不定期でお届けする連載「後世に残したい記憶」。日本ゴルフ界はいま、新しい時代の入口に立っています。だからこそ、過去に起きた出来事をあらためて見つめ直し、後世に残しておくべき物語があります。
長年にわたり国内外のゴルフメディアの第一線で取材を続けてきた、日本ゴルフジャーナリスト協会会長・小川朗氏が、日本ゴルフ史に刻まれた名場面をひも解いていきます。
第1回は1988年10月9日、「日本オープン」最終日。ジャンボこと尾崎将司の第2期黄金時代が幕を開けた、運命の一日を振り返ります。
昭和最後の日本オープン、語り継がれる18番の光景

2025年12月23日、ジャンボ尾崎は天へと旅立ちました。
前人未到の通算113勝。その輝かしいキャリアの中で、どの試合がベストゲームかと問われれば、意見が分かれるのも無理はありません。川奈のフジサンケイ、和合の日本オープン、通算100勝目を挙げたダンロップフェニックスなど、いずれも日本ゴルフ史に残る名勝負です。
その中で、ジャンボに近かった多くの関係者が口をそろえて挙げるのが、昭和最後の日本オープンゴルフ選手権でした。
名門・東京ゴルフ倶楽部で行われた日本一決定戦は、尾崎将司、青木功、中嶋常幸(当時は中島)による「AON」三強の名勝負として、今なお語り継がれています。
とりわけ強烈な印象を残したのが、最終18番のウイニングパットです。
青木と中嶋に1打差。これを沈めれば日本一という場面で、距離はわずか70センチの上り。しかしジャンボは、アドレスに入ったまま、まるで石像のように動かなくなりました。
70センチに凝縮された重圧と、異常なグリーン事情

静寂の中で一度アドレスを解き、ジャンボは右手首を肩の高さまで上げて振りながら、深く呼吸を整えます。その仕草を、ジャンボ流のファンサービスだと受け取ったギャラリーも少なくありませんでした。
この日、会場に詰めかけた観衆は6276人。満員のギャラリースタンドから笑いが漏れると、実況を務めていた羽佐間正雄アナウンサーが、解説の川田太三氏にこう投げかけます。
「尾崎も役者ですね」
しかし大会の裏事情を知る川田氏は、即座に否定します。
「違いますよ。これは本当(の重圧)ですよ」
再び構え直すものの、またも手が出ません。二度目にアドレスを解いたとき、ジャンボの額には脂汗がにじみ、視線は定まっていませんでした。その表情を見て、ギャラリーもすべてを察します。
グリーン周辺は、水を打ったような静けさに包まれました。
やがて意を決して放たれたパットは、カップに沈みます。
ホールアウト後、ジャンボは「こんな経験は初めてだ。最後? 何も覚えていない」とつぶやいています。
この2度の仕切り直しを、AONとの死闘が生んだ極度の重圧と見る向きは多いでしょう。しかし、もう一つ見逃せない事実がありました。
実はこの大会、グリーンが深刻なダメージを受けており、1組がホールアウトするごとに関係者がローラーをかけるという、異常とも言える対応が取られていたのです。
原因は、輸入したペンクロスの種が古かったことに加え、夏場の天候不順による日照不足でした。芝は十分に生え揃わないまま本番を迎え、その背景には当時のバブル景気に乗じたゴルフ場建設ラッシュもありました。
当時、日本ゴルフ協会(JGA)の業務にも携わっていた川田氏は、こう証言しています。「ペンクロスは3種類を掛け合わせた品種です。1種類だけだと、寒かったり暑かったりすると生育が止まってしまう。3つを掛け合わせているから、どれかが必ず頑張ってくれるはずなんですが、その年は天候が悪すぎた。しかもオレゴンで作られていた種が日本への輸出で不足し、前の年に残った古い種が使われた。その結果、3種類のうち2つはほとんど育たず、芝の生育にムラが出てしまった。砂を撒いて押し固めるしかなかったんです」
神経をすり減らすグリーンコンディションの中で、ジャンボもまた例外ではなかったことは明白でした。
メタルウッドとの出合いが変えた流れ
一方で、この日本オープンの勝利を語るうえで欠かせないのが、当時“新兵器”として機能したメタルウッドの存在です。
ジャンボ関連では最後の書籍となった『誰も書けなかったジャンボ尾崎』(金子柱憲著)の中で、次弟の健夫はこう語っています。
「メタルが出たのは幸運だった。八分で打っても300ヤード行くぞ、となったから、ジャンボは本格的に取り組んだ」
ジャンボがメタルウッドに出合ったのは、1986年の「カシオワールドオープン」でした。優勝したスコット・ホークの使用クラブを見て興味を抱き、テーラーメイドの担当者に自らコンタクトを取ります。
翌1987年の開幕戦から、担当者がジャンボに張り付き、本格的なサポートが行われるようになります。当時の状況について、関係者はこう振り返っています。
「当時、テーラーメイドは移動用のワンボックスカーを持っていました。ですから、3月中旬の静岡オープンの会場に、プレシジョン8.0のシャフトとヘッドを持ち込み、ジャンボさん本人に選んでもらったのが最初です」
サポートは試合会場だけにとどまりませんでした。
「その後はご自宅にも伺って、試合用のクラブを仕上げていきました。ちょうどフジクラのカーボンシャフトが出てきた時期で、150もあるヘッドの中から1つずつ選び、装着しては試打を繰り返したんです。その熱意は本当にすごいものがありましたね」(同関係者)
こうした試行錯誤は、確かな結果として表れます。
「5月のフジサンケイで2週連続優勝した時には、すでにメタルウッドを実戦で使っていました」(同関係者)
370ヤードの衝撃が示した“本物”
筆者も日本オープンの優勝を取材した後、同年12月に豪州ロイヤルメルボルンで行われた「豪州建国200周年記念大会」と「ワールドカップ」に同行取材しています。その際、練習場で目にした光景は、今も強く記憶に残っています。
テーラーメイドのメタルドライバーから放たれたボールは、掛け値なしで370ヤード級の飛距離を記録しました。金属音とともに放物線を描く打球に、周囲のギャラリーからどよめきが起こります。
その歓声を聞き付けて近寄ってきたのが、後に1990年のメジャーチャンピオンとなるウエイン・グラディでした。
「もう1回打ってくれ」
そう頼み込まれ、ジャンボが再び放った一打を、グラディは驚愕の表情で見送っています。破壊的とさえ思えるその金属音は、今も筆者の耳の奥に生々しく残っています。
こうした衝撃は、現場にいた関係者だけでなく、用具メーカーにも強い刺激を与えました。当時の開発現場を知る担当者も、その影響の大きさを証言しています。
当時ジャンボと契約していたブリヂストンスポーツも、手をこまねいているわけにはいきませんでした。山中幸博社長(当時)の大号令のもと、ジャンボ仕様の「J’sメタル」を急ピッチで開発します。
さらにツーピースボール「レイグランデWF」の完成を聞きつけたジャンボは、早々と両方の使用に踏み切りました。
当時の担当者、田中徳市氏は「メタルウッドとツーピースボール。それがジャンボの強力な武器となり、他の選手もこぞって使うようになりました。メーカーの開発競争が一気に激化し、その流れの中でジャンボは海外メジャーでも広告塔の役割を担ってくれた。トッププロたちが次々と使い始め、ゴルフ界全体が大きく変わった時代でした」と振り返ります。
技術革新と人材育成が残したもの

技術革新の波を誰よりも早く捉え、実戦で結果を出したジャンボ。その探究心はクラブ開発にとどまらず、独自の練習器具や練習法の考案にも及びました。こうした姿勢は周囲から「習志野のエジソン」と称されるほどで、ジャンボ軍団にも多くの示唆を与えています。
その成果は、1989年から1999年までジャンボ軍団のメンバーが賞金王を独占するという結果にも表れました(2001年には伊沢利光が賞金王)。ジャンボの存在が、ひとつの時代を形作ったことは疑いようがありません。
また、その影響は男子ツアーにとどまりません。
原英莉花、笹生優花、西郷真央、佐久間朱莉といった女子プロ門下生たちの活躍も、ジャンボの指導と姿勢があったからこそと受け止められています。勝ち方だけでなく、プロとしての在り方を示したことも、ジャンボがゴルフ界に残した大きな功績の一つでしょう。
大きな技術革新と人材育成の両輪によって幕を開けた、ジャンボ尾崎の第2期黄金時代。
その出発点となったのが、1988年の「日本オープン」だったのです。
取材・文/小川朗
日本ゴルフジャーナリスト協会会長。東京スポーツ新聞社「世界一速いゴルフ速報」の海外特派員として男女メジャーなど通算300試合以上を取材。同社で運動部長、文化部長、広告局長を歴任後独立。東京運動記者クラブ会友。新聞、雑誌、ネットメディアに幅広く寄稿。(一社)終活カウンセラー協会の終活認定講師、終活ジャーナリストとしての顔も持つ。日本自殺予防学会会員。(株)清流舎代表取締役。
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