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- 「試合から帰った時くれるポケットの“じゃら銭”が小遣いだった」 “父親としてのジャンボ”を長男・智春さん振り返る
2月3日に都内で行われた日本ゴルフジャーナリスト協会(JGJA)の新年会に出席した長男・智春さんが、ジャンボこと尾崎将司さんの父としての顔を明かしました。
「最後は『お前のおかげだな』と言ってくれました」
父親としてのジャンボの顔を、長男・尾崎智春さんが明かしました。
昨年12月23日に亡くなったジャンボこと尾崎将司さん。通算113勝(ツアー94勝)の実績はもちろん、エンターテナーとしても長年、日本のゴルフ界を引っ張ってきた功績を称え、日本ゴルフジャーナリスト協会(JGJA)から特別賞を贈られました。3日に行われたその表彰式に代理出席した智春さんは、息子であると同時にジュニア育成NPO法人JUMBOスポーツ・ソリューション理事長でもあります。
プロゴルファーとして試合に出ていた時期もあることから「ゴルフを始めてからは師匠として付き合っていたので」と言いつつも、息子だからこそ知る父の素顔を披露してくれました。
最初に出てきたのは「試合ばかり行っていたけど、帰ってきた時、ポケットにあるじゃら銭(小銭)をお小遣いとしてくれた。空港の売店で買い物したおつりか何かだったと思うけど、『これで明日駄菓子屋に行ける』と思った」というもの。「でも運動会とかも来たことあるんですよ。父兄参観に来たこともありました。突然来たから大騒ぎになった。先生も授業どころじゃなくて。たぶん、予選落ちしたからじゃないかな」と、その光景が浮かぶようなエピソードも明かしました。

ジャンボの愛車フェラーリが高速道路で炎上した有名な話にも触れます。
「覚えてますよ。後ろから煙が出て、親父は降りたんだけど僕はロックしちゃってて出られない。小学校2年生ですからね。親父が一度戻ってきたんだけど、サイフを取ってまた行っちゃった。でも、まだ煙が出ていただけなんでね。その後、ちゃんと出してもらった。結局、車は半分くらい燃えたんですけど」と鮮明な記憶をたどります。
“弟子”としての要素も入り混じるキャディーの経験も何度も持っています。最初は「あの重いバッグを担いでやれるのかな?と不安でした。(同伴競技者の)ラインを踏んで怒られながらやりました」という状態でしたが、1986年の夏休みには「日経カップ 中村寅吉メモリアル」「マルマン日本海オープン」の2週連続優勝で、いずれもバッグを担いでいます。
特にマルマン日本海では、最悪のスタートからの巻き返しを完全サポート。「セカンド(ショット)がフライヤーになってグリーンをオーバーしていきなりダボです。親父が『もう帰る』というのを『まだ始まったばかりだから』と一生懸命励ましたら、後半でバーディーが来て巻き返せたんです。最後は『お前のおかげだな』と言ってくれました」と明かします。この時、智春さんは15歳。中学3年生でした。
メタルウッドを引っ提げての復活に一役買う
その後も海外遠征には何度も同行。
「マスターズも10回行っていますし、全英も、全米プロも行きました。全米オープンだけは6月で学校があるため行けなかったのが残念。(メジャーでの)練習ラウンドでは必ず僕が大ファンだったセベ(バレステロス)と回るんです。実はセベは練習で必ずボールを2つ使うためプレーが遅いので、みんなが敬遠するんですが、ウチの親父は断らないので、練習ラウンドはいつも一緒でした。家にもよく電話がありました」とも話しています。
パーシモンからメタルへとクラブが変わっていくときにも、智春さんが一役買っています。
1986年、アサヒビールのCM撮影でハワイを訪れた時のこと。「(ゴルフ用品店の)サワダゴルフで見つけたメタルを『打ってみろ』と言われて、僕が打ったらすごく飛んだんです。それで(すでにメタルウッドを開発していた)テーラーメイドに電話してました」。この後ジャンボはメタルウッドを自分の武器として、完全復活したのは誰もが知るところです。その陰には、愛息であり弟子でもある息子の存在がありました。
取材・文/小川淳子
ゴルフジャーナリスト。1988年東京スポーツ入社。10年間ゴルフ担当記者として日米欧のトーナメントを取材する。1999年4月よりフリーランスとしてゴルフ雑誌やネットメディアなどに幅広く寄稿。
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