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- 「日本で戦う姿をもう一度」アン・シネが流した涙、そして実業家として歩む第2の人生
コロナ禍で途切れた日本ツアーへの思い。父への願いを胸に復帰したアン・シネは“奇跡の4ホール”で涙を流した。引退後は実業家として新たな挑戦を続けている。
「週末ゴルファー」からの驚異的な復帰
2017年、日本女子ツアーに“社会現象”ともいえる熱狂を巻き起こしたアン・シネ。だが、その華やかな記憶の裏では、コロナ禍による挫折や引退への葛藤、そして大切な家族への思いが交錯していた。いったん競技の世界から離れながらも、日本への未練と父への願いを胸に再びコースへ戻った彼女が、初めて涙を流した“奇跡の4ホール”とは何だったのか。引退後、実業家として歩み始めた第2の人生まで、本人の言葉でたどる。(韓国・ソウル/キム・ミョンウ)

日本でちゃんと挨拶もできないまま、アン・シネは静かに姿を消した――。コロナ禍はアン・シネの“最後の1年”を奪い、未練を抱えたまま日本から遠ざかった。もちろん落ち込みは深く、母国ツアーも中止が続いた。
そこで彼女は、ゴルフのない生活を選んだ。
「正直、私の心はすでに“引退”していました。旅行に出かけて美味しいものを食べたり、これまでゴルフのために我慢していた時間を取り戻すように過ごしました。一言で言えば“週末ゴルファー”のような生活ですね。でも、どこかで勝負への情熱が消えていないことにも気づいたんです」
22年、リフレッシュも兼ねて米カリフォルニア州を訪れた際、滞在先の近くで米女子ツアー予選の1次会場があることを知った。
「マネージャーに電話して『今すぐQスクールを申請して!』と伝えました」
結果は見事に1次突破。「まだやれる」という自信を取り戻した瞬間だった。
ここから練習を再開し、23年7月には日本ツアーQT参加を公表した。しかし、日本へ向かわせたもう一つの大きな理由があった。それは父・アン・ヒョジュンさん(24年5月に逝去)の病状だった。
父の病状が背中を押した「もう一度だけ日本で戦う姿を」

「父は18年にすい臓がんの手術をしました。一度は回復しましたが再発し、医者からも覚悟が必要だと言われていました。父は私の一番のファンで、私がゴルフをする姿を誰よりも見たがっていた。手遅れになる前に、もう一度だけ日本で戦う姿を見せたい。そして、あの時言えなかった『感謝』を伝えに、日本のQスクールを受けようと決めたんです」
それは単なる復帰ではなく、人生の整理でもあった。
そして24年シーズン、前年のファイナルQTを16位で突破したアン・シネは再び日本ツアーへ戻ってきた。だが、ブランクは隠せない。開幕戦から2試合連続で予選落ち。それでも4戦目の「アクサレディス」では10位タイに入り、日本ツアー参戦後初のトップ10入りを果たす。“奇跡”の4ホールもこの年に生まれた。
忘れられないのは「ワールドレディスチャンピオンシップサロンパスカップ」。17年に日本デビューした思い出の大会だ。
「2日目を終える直前、残り4ホールで3つのバーディーが必要でした。14ホールをボギーだらけで回ってきた私が、今さらバーディーを3つも取れるのかと…。でもキャディーが言うんです。『シネ、まだ4ホールある。ギブアップしちゃダメだ』と。その瞬間、自分の中に別の誰かが降りてきたような、不思議な自信が湧いてきました」
15番、16番でバーディーを重ね、迎えた18番。5メートルのパット。入れなければ予選落ちだった。
「応援してくれるファンのためにも最終日までプレーしたくて…。最後の一打が入った瞬間、足の力がふっと抜けて、膝をついて泣きました。優勝しても泣かなかった私が、です。あの4ホールは一生忘れられない瞬間。翌年に父は天国へ行きました。私の最後の踏ん張りを見て、安心してくれたのかなって……」
久しぶりの日本で知った「日本の流儀」
復帰したアン・シネがあらためて感じたのは、競技レベルだけではない。日本のゴルフ場にある“当たり前”が新鮮だったという。
「日本のゴルフ場には、韓国にはない細やかな配慮がたくさんあります。例えば『ホットボックス(おしぼり機)』。あれが大好きなんです。靴を洗うためのエアガンやブラシ、汚れを拭くタオルまで完璧に整っている。清潔さへの配慮は世界一だと思います」
一方で、日本ならではの過酷さも体感した。
「日本は日の出が早いからティータイムも本当に早い。6時50分スタートなら3時半には起きなければなりません。宿舎がゴルフ場から1時間以上離れていることも多く、前夜8時には寝ないと体が持たないんです。でも、福岡でもつ鍋、仙台ではずんだ餅など、各地の特産を食べるのも楽しみでした。記者さんたちと『明日のウェアはずんだ餅カラーです』なんて話しながら過ごした時間も、今ではとても愛おしいです」
雨の待機室、河本結には伝えた引退

引退試合となった24年9月「ミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープン」も忘れられない。言葉の壁や異国での孤独を和らげてくれた存在がいた。 河本結 だ。
大雨による中断の待機時間、2人は多くの言葉を交わした。
「結ちゃんとは雨の待機時間に本当にたくさん話しました。彼女は米ツアー経験もあって英語ができるので、気さくに『シネさ〜ん』って声をかけてくれて。コスメの話、将来の話……。私がこの試合で引退を決めていたことも、彼女だけには打ち明けていたんです。予選通過できなくてもQTは受けないし、日本での試合はこれが最後になるって……」
その思いを伝えた後、河本は雨の中で約1時間も帰りを待ち、クラブハウスで顔を見るなり号泣したという。
「私は寒さで震えながら『どうしたの!?』って驚きました(笑)。あの涙には、1シーズンの間に築いた友情が詰まっていたと思います」
そして彼女は引退を決めた。しかし、引退は終わりではなかった。むしろ第2の人生の始まりだった。
「第2の人生」7歳のアン・シネに戻って

引退からわずか1カ月後、彼女は法人を立ち上げた。
競技者としてのキャリアに区切りをつけた直後、経営者として歩み出していた。そのスピードには迷いよりも意思があった。
「『ゴルフを離れて何をしよう?』と考えて辿り着いたのがビューティー事業でした。紫外線を浴び続けてきた私の肌が、一番ケアを必要としていたのがきっかけです。新しい化粧品ブランドの立ち上げには9カ月かかりました。工場にも通い、衛生キャップを被ってパッケージのプリントまでチェックしましたよ。ゴルフを始めた7歳の頃のように、今は毎日が新しい発見でいっぱいです」
アン・シネは、再びゼロから積み上げる道を選んだ。ゴルフが技術を積み上げるスポーツなら、ビジネスもまた同じだ。そして彼女は、ビジネスを通じて日本と再びつながろうとしている。
「ゴルフをやめて日本との縁が切れてしまうのが一番残念でした。だから、ビジネスを通じて大好きな日本とつながり続けられるのが本当にうれしいんです。2月に福岡・博多で開催したポップアップもその一つでした」
引退後も、違う形で日本との関係は続いていく。
「日本でプレーすると決めた選択に後悔はない」
最後に聞いた。アン・シネにとって日本ツアーとは何だったのか。
「ゴルフ人生で、最も華やかで、最も幸せな時間でした。成績が出ず苦しい時も、日本のファンの皆さんが温かく迎えてくれたから、私は本当の意味で『プロゴルファー』になれた。あの日、日本でプレーすると決めた選択に後悔は1ミリもありません。日本という場所、そして皆さんに会えたことは、私の人生で最高の幸運でした」
彼女が日本に残したのは、華やかなウェアやスタイルだけではない。一人のファンも置き去りにしない、プロとしての真摯なリスペクトの精神だ。
2017年の熱狂を駆け抜けた“セクシークイーン”は今、その記憶を糧に第2の人生を歩み始めている。かつての喝采を、今度は新しい形での「再会」へと変えるために。
アン・シネ
1990年12月18日生まれ、韓国出身の女子プロゴルファー。2017年に日本ツアー初参戦すると、抜群の美貌とスタイルで注目を集め「セクシークイーン」の愛称で、日本の女子ゴルフ界に旋風を巻き起こした。
取材・文:キム・ミョンウ
1977年生まれ、大阪府出身の在日コリアン3世。新聞記者として社会・スポーツ取材など幅広い分野を担当。その後、編集プロダクションを経てフリーに転身。2010年、サッカー北朝鮮代表の南アフリカW杯出場決定後、日本メディアとして初めて平壌で代表チームを取材し、『Number』に寄稿。2011年から女子プロゴルフの取材も開始し、日韓の女子プロとも親交を深める。現在は女子ゴルフとサッカー、アスリートインタビューなどを中心に雑誌やWEB媒体に寄稿。著書に「イ・ボミ 愛される力」(光文社)。
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