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- またも破られなかった… 倉本昌弘が44年前の「全英」で残した“日本人最高位” 世界を驚かせた鮮烈デビュー伝説とは【小川朗・後世に残したい記憶】
またも破られなかった… 倉本昌弘が44年前の「全英」で残した“日本人最高位” 世界を驚かせた鮮烈デビュー伝説とは【小川朗・後世に残したい記憶】
倉本昌弘(くらもと・まさひろ)が1982年の全英オープンで記録した4位は、今年も破られることなく、日本人最高位として輝き続けています。鮮烈なプロデビューから世界のトップと渡り合った当時を、小川朗氏が振り返ります。
26歳の倉本昌弘が全英の「優勝候補」に
今からさかのぼること43年。1983年に行われた「全英オープン」の舞台も、今年と同じ英国ロイヤルバークデールだった。その開幕前日、ジャック・ニクラスやトム・ワトソンの“新旧帝王”、“スペインの星”セベ・バレステロスらスーパースターに混じり、掛け値なしの優勝候補として全英オープンの共同会見場に呼ばれたのが、当時弱冠26歳の倉本昌弘だ。
というのも、倉本は前年の1982年、ロイヤル・トゥルーンで行われた全英で大健闘。最終日は優勝したワトソンに食い下がり、日本人過去最高となる4位の好フィニッシュで存在を強烈に印象付けていたからだ。この記録更新に今年も8人の日本選手が挑んだが、松山の14位タイが最高。記録更新は4年後の全英まで持ち越されることとなった。倉本の4位は、少なくとも45年、日本人最高位であり続ける。そこに全英ならではの難しさも感じさせられる。

当時筆者は、記者生活2年目。初めてのメジャー取材に意気込みばかりが空回りしていた23歳だったが、今もその光景は昨日のことのように思い出される。前年最終日の振り返り、ロイヤルバークデールの印象、昨年のリベンジを期しての抱負など、大勢の記者たちを前に、通訳なしで堂々と受け答えをしていた。
米イーストテネシー大に留学経験のある倉本だから当たり前なのだが、その当たり前ができる日本人プロゴルファーは当時、希有な存在だった。宮本留吉が1932年、第67回大会(プリンスィズ開催)に日本人として全英オープンに初めて挑戦。予選落ちしてからすでに50年が経過していたものの、青木功も尾崎将司も中島常幸も岡本綾子も、日本選手の共同会見では通訳が傍らにいた。
海外のメディアに、自分の言葉で思いを伝えられる日本人プロゴルファー。そうした意味で、倉本は国際派プロの先駆けの一人だったと言えるだろう。
プロ入り直後から勝ち続けた鮮烈なデビュー

他を圧倒するパワーを備えてプロ野球の世界から舞い降りてきた“ジャンボ”尾崎の存在が、当時のスポーツ界に強烈なインパクトを与えたのは事実だが、別の意味で倉本ほど鮮烈なデビューを飾った選手はいない。
トゥルーンで4位に入る前年の1981年。日本のプロテストトップ合格から約1カ月後の「和歌山オープン」でデビュー戦初勝利を飾ると、翌週の「デサントカップ北国オープン」では2位タイに食い込む。
さらに翌週の「兵庫県オープン」でも、初日からただ一人3日間60台を並べ、2位の島田幸作に3打差をつけ優勝した。優勝、2位、優勝という鮮烈なデビュー。当時スーパースターの座にあったジャンボが初勝利にこぎつけるまで1年半、青木功に至っては7年を要したことと比較され、そのすごさが認識され始めると、注目度も日を追うごとに上がっていった。
そして8月の「日本国土計画サマーズ」。この大会で、倉本は7アンダー「65」のロケットスタートに成功する。2位に2打差の単独トップに立つと、2日目以降も首位を明け渡すことなく、4日間通算7アンダーで完全優勝してしまった。
シーズンはこの後、秋のビッグトーナメントに突入。北の大地に舞台を移した「全日空オープン」(札幌GC輪厚)でも、倉本は初日から首位で飛び出した。3日目の7番パー4で第2打を直接カップに叩き込むイーグルなどを奪い、4日間首位を走る完全優勝。プロ入りわずか73日で5勝というすさまじさに、当時のマスコミも大きくこの優勝を報じた。
3週後の「東海クラシック」は「国際オープン」とうたっているだけあって、“スーパーメックス”リー・トレビノと、この年の「全米プロ」に勝ったばかりのラリー・ネルソンという、2人のメジャーチャンピオンが招待されていた。
ここでも倉本の語学力と社交性が生きる。特に米ツアー5勝を挙げていたネルソンは、独自の理論を構築した人物としても知られていた。そこで倉本はさっそく練習ラウンドでの同伴プレーを申し出る。
倉本のゴルフを見たネルソンは即座に「右の使い過ぎ」を指摘し、「左手首の折れをなくすんだ」とアドバイス。その効果を、倉本は著書の中でこう明かしている。
「左手を締めたままローリングするんだ。右を気にせず左でインパクトするんだ」(中略)「ぼくは左グリップの小指側をしっかりと締め、クラブと腕を一本にし、左手首の折れを極力させないことを注意してやってみました。と、どうでしょう。トップで中に入ったクラブが入らなくなりました」(倉本昌弘著「ポパイ流飛ばすゴルフ 俺だけのやりかた」より)
ショットが復調した倉本は「68」で単独トップ。2日目が雨で中止となり54ホールに短縮された試合は、最終日に通算7アンダーで並んだ中村通、重信秀人、小林富士夫、そして倉本の4人によるプレーオフへともつれ込んだが、倉本の優勝で幕を下ろした。
わずか11戦で6勝。この時点で7月10日のデビューから数えて3カ月しか経っていなかった。
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