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- 今では考えられない女子ツアー“不毛時代” メディアは来ないが“おもてなし”はスゴかった
近年、若手のスターが台頭著しく、たくさんのギャラリーが訪れる国内女子プロゴルフツアーだが、ツアーが始まったころは誰も見向きもしなかった。長年、ゴルフ雑誌の専属カメラマンとして活動した鈴木健夫さん(77歳)に当時の話を聞いた。
新聞もテレビも来ず雑誌記者だけだった時代も

鈴木さんがいくつかの記憶にあるエピソードを教えてくれた。
「そのころの人気スポーツといえば、結局はプロ野球です。私は専門誌のカメラマンだったので、女子ゴルフの現場にも行きましたが、それこそ不人気のときは、大手紙やスポーツ紙記者は来ていなかった。テレビ放送ももちろんなかったですから。現場には雑誌記者だけの時もありました」
また、こんな話もある。
「あまりにも現場にメディアが来ないので、協会からわざわざ『来てください』と声をかけられることも多かったです。あと、すごく記憶に残っているのは『東鳩レディスゴルフトーナメント』(82年~97年開催)。想定外にメディアが来なかったので、記者たちに渡すために用意されていたお菓子が大量に余ってしまった。大会側が『持って帰っていただけますか?』というので、帰りに段ボールに大量のお菓子を詰めて車で会社まで持って帰りましたよ(笑)。それくらいメディアが来ていなかった時代があったわけです」
女子ゴルフに不毛の時代があったわけだが、それでも大会を開催する企業側の努力があって今がある。
ダイキンの物凄い“おもてなし”
最後に鈴木さんが思い出すエピソードの中に、主催者側のおもてなしが想像以上だった大会がある。
それが女子ツアーの開幕戦でもある「ダイキンオーキッドレディス」だ。同大会は88年、沖縄と本土をつなごうと始まったという。
ちょうど5月27日付けの朝日新聞にダイキン工業の井上礼之(のりゆき)会長のインタビューが掲載されていた。そこで井上会長はこんなことを語っている。
「琉球放送の社長だった小禄(おろく)邦男さんから『明るい話題を発信したい』と提案がありました。当時は観光客も少なかった」
「当時のダイキンの売上高は年間3000億円程度。広告宣伝費も少なく、沖縄での仕事は多くありませんでした。役員の多くは主催することを反対しました」
「私はこのとき、初めて沖縄を訪れました。那覇空港には多くの軍用機が並び、異様な光景でした。実は沖縄に大きな関心はなかったのです。戦争や本土復帰が遅れたことを小禄さんが一生懸命に語ってくれたことが大きかった。戦争で亡くなった人の想いにこたえないといけない、いまのままの沖縄ではいけない、と」
鈴木さんはダイキンの大会に行くと、こんなおもてなしがあったという。
「大会に行くといつも地元の焼酎を3本ぐらいくれるんです。どうやって持って帰るんだと思っていたら、プレス用の盛大なパーティーがあって、そこでも焼酎を1本用意されていてね。次は試合が終わって那覇空港に行くと、帰りにステーキ肉を2キロくらいくれるんです。もう別のバッグがないと持って帰れなくて、それが大会のたびに何回か続いた記憶があります」
こうして女子ツアーを開催する大会スポンサーは、赤字を出しながらも、さまざまな思いで継続してきたわけだ。
大会スポンサーの努力と選手の活躍に加えて、メディアをどう引き込むかも重要だった。誰も見向きもしなかったかつての女子ツアー。現在の人気ぶりは、スターの誕生など偶然がもたらしたものではなく、さまざまな要素が噛み合わさってできたもの。どの一つも欠けてはならず、それを継続してきた人々の地道な努力があってこそ今がある。
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