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- 「高校2年で見て“目がくぎ付け”になった」 ジャンボ軍団・金子柱憲が師匠へのあふれる思いを吐露
「ジャンボ」こと尾崎将司氏の訃報に接し、ジャンボ軍団の金子柱憲氏が師匠への思いを語りました。
「思い出がいっぱいありすぎて」
〈俺にとって、ゴルフとは、私を活かしてくれた大恩人であり、ゴルフの深さは果てしない。素晴らしいゴルフ人生、ゴルフの神様ありがとう。以上〉
これは尾崎将司氏がジャンボ軍団の金子柱憲氏に語った『誰も書けなかったジャンボ尾崎』(主婦の友社)の結びの一言です。
日本ゴルフ界のカリスマとして君臨したジャンボこと尾崎将司氏が23日午後3時21分、S状結腸がんのため死去しました。78歳でした。国内男子ゴルフツアー通算94勝、プロ通算113勝を誇り、賞金王は実に12回。そのジャンボからお墨付きを得て、全幅の信頼を得ていた弟子の金子プロに対し、これまでのゴルフ人生を本音で語ってもらったのが、同書の巻末インタビューでした。

筆者もこの書の執筆・編集のお手伝いをさせていただき、健夫プロ、直道プロ、飯井肇プロら多くの軍団メンバーから、金子プロのインタビューに同席し、ジャンボの素顔について聞くことができました。
次弟の健夫プロは「24歳から32歳まではずば抜けた運動神経と基礎体力だけで20勝してしまった」とその鮮烈デビューを振り返ったあと、「ジャンボが影響を受けたライバルはジャック・ニクラウスとトム・ワトソン。金子が軍団に来た頃、ジャンボは彼らより20ヤードくらい前に行っていた」と証言してくれています。さらにその後メタルウッドとの運命的な出会いを経て、スイング改造の成功、さらにはアプローチの開眼についても語ってくれました。
全盛時代を余すことなく見てきた金子プロだけに、突然の訃報を聞いてショックを隠せません。
「高校2年の時、横浜CCで行われたペプシトーナメントに観戦に行って、ジャンボのゴルフを初めて見た途端、目がくぎ付けとなりました。その翌年の日本オープンの3日目、確か4位か5位で予選を通過した私が、ジャンボと最終組の1組前で一緒に回ることができたんです」と当時を振り返ってから、大きくため息をつきました。

「それから1983年に飯合プロの口添えで日大ゴルフ部同期の東(聡)とともに、ジャンボ軍団入りすることができました。23か24歳の頃からこの年までいろんなことに関わってきたから、思い出がいっぱいありすぎてって感じで……」と思いを語ってから、こう続けました。
「このところは体調も良くなくて、のぞきに行っても会えなかったから、しんどいのかなと思っていました。私にとっては人生の師匠ですから、残念でなりません。本当にお世話になりました」
「試合のあと、悔しさを出さないんだ」
筆者の現場取材で最も印象に残っているジャンボの雄姿は、メジャーの優勝に最も近づいた1989年の全米オープン(ニューヨーク州オークヒルCC)。徳島・海南高校で選抜優勝を成し遂げた時の1年後輩で一塁手だったエースキャディー・佐野木計至氏がバッグを担いでいました。最終日、10番のバーディーでトップタイ。13番までトップで来て、14番のティーショットで2番アイアンを選択しながら痛恨のミス。
佐野木氏は後日「もう少し短いクラブでティーショットができていたら、結果は違ったかも」と悔やんでいましたが、その時のジャンボの表情をこう振り返っています。「(勝てなかった場合でも、ジャンボは)試合のあと、悔しさを出さないんだ」。
プロ通算113勝のうち、筆者が目の当たりにした優勝はいくつもあります。けれども、その裏には、それを大きく上回る惜敗もありました。その悔しさをおくびにも出さずに勝利を積み重ねていく姿が、ライバルたちの目には脅威として映っていたに違いありません。
訃報で長男の尾崎智春氏は、約1年前にステージ4と診断され、以降も強い意志で自宅療養を続けていたことを公表しています。葬儀は故人の遺志により近親者のみの家族葬で執り行われ、後日お別れの会が予定されています。
取材・文/小川朗
日本ゴルフジャーナリスト協会会長。東京スポーツ新聞社「世界一速いゴルフ速報」の海外特派員として男女メジャーなど通算300試合以上を取材。同社で運動部長、文化部長、広告局長を歴任後独立。東京運動記者クラブ会友。新聞、雑誌、ネットメディアに幅広く寄稿。(一社)終活カウンセラー協会の終活認定講師、終活ジャーナリストとしての顔も持つ。日本自殺予防学会会員。(株)清流舎代表取締役。
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