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成田空港の拡張で34年の歴史に幕 反対派との攻防、バブル崩壊…時代の波に翻弄された富里GCの壮絶な“生涯”【小川朗 ゴルフ現場主義!】
富里ゴルフ倶楽部(千葉県)にとって、2023年12月31日が“最期の日”となりました。隣接している成田空港に3本目のC滑走路が新設される影響で閉鎖を余儀なくされたからです。日本ゴルフジャーナリスト協会会長の小川朗氏が、開場から34年の歴史に幕を下ろした日をリポートします。
「こんなところにゴルフ場をつくるのはけしからん」
ゴルフ場がその“一生”を終えるとき、そこでは何が起きるのでしょうか。2023年12月31日。富里ゴルフ倶楽部(千葉県)にとって、大晦日が“最期の日”となりました。原因となったのは、隣接している成田空港に3本目のC滑走路が新設されること。34年に及ぶ歴史に幕が下りる日、コースにはゴルフ場をつくった人、勤めた人、プレーした人、それぞれの切なさと、悲しみと、なつかしさが交錯していました。
18番グリーン左奥にある名物の大クスノキが見下ろせる席に、このコースの「生みの親」が座っていました。東京グリーン富里カレドニアン(株)の早川治良代表取締役会長です。「富里ゴルフ倶楽部 サヨナラ杯」が開催されたこの日の午後、コースを眺めながらお話を聞くことができました。
「このクスノキは九州から持ってきたんです。電信柱みたいに切って、枝を全部落としてね。3分の1くらいの大きさだったんですよ。ここ(クラブハウスのレストラン)から見下ろせるような高さだったのに、今はこんなに大きくなった。それが34年の歴史ですよね」
そう言ってから、とても寂しそうな表情を浮かべて、こう続けました。
「こうした木が、コースの至るところにあります。空港になるのですから、根っこまで全部引っこ抜かなきゃいけない。切るだけでも大変な作業になります」
早川会長が遠い目をして、1989年6月の設立当時を振り返ってくれました。
「富里には本当にいろんな思いが詰まっています。企画の段階から苦労の連続でした。地上げでも最後の一人に至るまで口説き落とすのに、どれだけ苦労したか。これだけ広い面積ですから、一人(の土地)でも欠けちゃうとコースにならない。腹の底から粘り強く、最後の最後まで頭下げてお願いしてやっと全部まとまったという状況でした」
地上げが難しい事情はもう一つありました。空港建設に反対する、過激派の存在です。
「この富里の近くにも、空港反対派の猛者がいて脅されました。『こんなところにゴルフ場をつくるのはけしからん。(団結)小屋を建てて反対するぞ』と言われましてね。自宅へ一升瓶を持って、恐る恐るうかがって『本当にいいコースをつくるんで協力してくれないか』と頭をすり付けてお願いしたこともありました」
貴重なブレーンたちの存在も見逃せません。
「金田武明さんは先見の明がある方で、いろいろアドバイスをくれました。ここつくるときに顧問をお願いしたところ『ワングリーンじゃなかったらいやだよ』って言われたので、強引にワングリーンでやりました」
資金調達の苦労についても、明かしてくれました。
「クラブハウスだけでも20億円くらいかかっています。実は、某ゴルフ場の開発話で熊谷組とご縁ができて、富里では地上げの飯場をただで貸してくれたり、嘱託の社員2名を出向させてくれたりと、全面支援してくれたんですよ。熊谷組の支援で軌道に乗った時、あつかましくも世界的なコースには知名度が必要と考え、と大商社を紹介してくれないかと頼んだんです。それで伊藤忠商事を私に紹介してくれました。紹介してくれた方は『私が仲人役をしてあげる』とおっしゃっていましたが、熊谷組自体も当時、伊藤忠とのパイプをつくりたかったのでしょう。伊藤忠のほうも『商社冬の時代』と言われた状況で建設部門がすごく縮小されていて、『これからどうしよう』とみんな考えていた時期でした。私は『過去、こういう実績があります』と熱意をこめて説得しました。伊藤忠の全面的な協力支援が実現したことで、第一勧銀(みずほ銀行の前身)が無担保で200億ぐらいバンと出してくれたんです。それで一気に動き出した。もちろんそれまでは資金繰りが大変でしたけどね。今から考えると人の縁と、時の運にも恵まれたと思います。情熱と誠実が幸運を生んだのだと思います」
バブル崩壊…整理回収機構と1年以上の交渉
こうして和風の豪華なクラブハウスも完成し、高速ワングリーンが注目を集める富里GCが誕生しました。1989年6月10日のオープンでした。
「『夏(の暑さの中でグリーンが)耐えられるの?』って言われて、最初は怖かったですよ。でもそれで、ずいぶん改良に改良を重ねましたしね。今、使っているのは第5世代の最新の種ですけれども、従来の管理と違うんです。開場当時はペンクロスが全盛の頃で、ゼブラ模様のように綺麗に刈り込む方式でした。アメリカから最新のスプリンクラーを取り入れて散水をたっぷりやりましたが、それではグリーンがどうしても軟らかいんです。スピードもなかなか出ない。ジャック・ニクラスが高い球を打つと2~3メートルのバックスピンがかかって、それがいいグリーンだとされていたんです」
早川会長が目指していたのはオーガスタ並みの高速グリーン。試行錯誤が続きました。
「その頃、ペンクロスは最適の芝だったんですけども、完璧な自動散水装置で、夕方見ると見事な散水景観で素晴らしいなと最初は思っていたんですよ」
ところがその後、地球温暖化が進み、芝の品種改良も急速に進んでいきました。富里もその対応に追われていきます。
「最近の芝は水をそんなに撒いちゃったらダメなんです。ペンクロスだと30%くらいの水分率を保たないといけない。しかし今の改良されたベント芝は真夏でも20%を切らないとダメなんです。それをグリーンキーパーは怖がるわけですよ。20%切ると乾燥でドライになるからと。それならと全部スプリンクラーも変えて、ドライにならないような手法を開発しました。たぶん、グリーンの管理は当社が日本で最先端をいっていると思います。他のゴルフ場の人たちも視察に来られています」
イノベーションを続けている中で経済状況は激変しました。バブルが弾け、オープン直後から大きな荒波が次々にやってくることになります。
「会員募集を途中で中止したので、カレドニアン(同社グループコースのカレドニアン・ゴルフクラブ)とで250億円ほど借金が残りました。その借金が銀行からRCC(整理回収機構)に回されたわけです。当時の整理回収機構は相手の会社を潰すという、政府の機構でした。でも運よく潰すだけじゃなくて、再生できるところは支援すべきだと、こういう政治的な声が出ましてですね。それで整理回収機構の中の再生部のほうに回されまして首がつながった、という状況でした、RCCとの交渉も本当に1年以上、すったもんだがありました」
多くのゴルフ場が法的整理に追い込まれ、「ハゲタカファンド」に二束三文で売り渡されたのがこの時期です。その余波は富里にも及んでいたわけですが、幸運にも存続することができました。
空港用地として売却へ…安倍首相への嘆願書
さらに「最後に来た大仕事」が、このゴルフ場を成田空港に売り渡せ、という話でした。複雑な表情を浮かべて、早川会長が振り返ります。
「本当に晴天の霹靂でしたが、世のために協力しなければということになりました。空港会社はお役人の集団で前例主義。柔らかい言葉ですが、命令口調で『国家のために協力しろ』というわけです。でも多額の預託金が残ってますんで、それを会員に全額返還しなきゃいけない。6000万円くらいで入った人もいますから、彼らの予算の3倍の補償金がないといけないんです。それをなかなか認めない。『(国に)預託金の返還の義務はない、それは東京グリーンの義務』というふうに言われましたけども、こっちにとっては重大責任ですからね。東京グリーンとしては、預託金を返せなかったら大騒動になる。そこで安倍(晋三)総理大臣(当時)宛で、嘆願書を書いたところ、特別補佐官から『しっかりと弁護士たちと交渉しなさい』とアドバイスをもらいました。安倍さんはゴルフ好きでしたから、取り上げてくれたんだと思います。3年ぐらい粘り強く交渉して、何とか預託金だけは返せるという目処が立ったんで受け入れたんです」
富里で開催されたプロのトーナメントや、公式戦などの主だった試合は17回に上ります。
「(シニアの)第一生命カップ(1997年)でゲーリー・プレーヤーが優勝を飾ったんです。18番でプレーヤーは第2打をドライバーで打ちまして、3打目をフェアウェイの寄せやすい場所に置き、ピタッと寄せてバーディー。杉原輝雄はパーでした。大接戦でした。(プレーヤーは)僕と同い年で身長も175センチで私と同じ。生涯最後の優勝だと大変喜んでいました。私にお腹を触れというので触ったら、お腹が鋼鉄みたいに硬かった。鍛錬していました。鉄人ですよね」
インタビューが終わりに近づいたころ「サヨナラコンペ」の18ホールを終えた会員たちが、続々とパーティー会場のレストランに上がってきました。15時半から行われた表彰式の後、あいさつに立った早川会長は一連の思い出を語り「せっかく富里が軌道に乗ってきた段階で、こういう結果になってしまって、本当にメンバーの皆さまにはご迷惑をおかけすることになりました。申し訳なく思っております。本当に考えると楽しいこともいっぱいありましたが、苦しいことも山積みでした。そんな思いを込めた富里が永遠に失われるということ、まことにつらいことであります。涙が出てきます。断腸の思いであります」と、別れを告げました。
最後はコース管理スタッフ、キャディー、接客スタッフら関係者全員が並び、会員とともに早川会長の音頭で「サヨナラ三唱!!!」。サヨナラコンペも盛会のうちに幕を下ろしました。
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