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- 川田太三氏が死去 コース設計、ルール、マネジメントで日本のゴルフ発展に功績 米留学中メジャーリーグ入りの話も
ゴルフ場設計家の川田太三(かわた・たいぞう)氏が7月25日に死去した。R&Aのメンバーとして全英オープンをはじめとするメジャー大会のレフェリーを務めたルールの専門家、トーナメントのテレビ解説者としても知られた氏の足跡を振り返る。
全英オープン、マスターズなどメジャー大会のレフェリーを務める
ゴルフ場設計家の川田太三氏が7月25日に死去した。82歳だった。1990年からR&Aのメンバーになり、全英オープン、全米オープン、マスターズなどメジャーの競技委員を務め、全米オープンなどのテレビ解説者としても人気を博した。日本ゴルフコース設計者協会の理事長も務めるなど、ゴルフ界に多大な貢献をしてきた。
関係者によれば、葬儀は27日に都内の教会で近親者のみを集めて行われたという。
川田さんは1944年2月20日、東京生まれ。父は1932年ロス五輪の水泳800メートルリレー日本代表の補欠。父の妹が吉永小百合さんの母親で、いとこの関係にあった。その下の弟がラグビーでは日本一のレフェリーと言われた川田大介氏。父の代の川田家はスポーツ一家だった。
川田氏自身も立教小時代は水泳、同中学に進んでからは野球に熱中した。高校3年時には右投げ右打ちのキャッチャーとして活躍。全国高校野球埼玉県予選を視察していた米国オハイオ州立大の監督の目にとまり、フルスカラシップ(奨学金全額支給)で同大学に留学した。
在学中には水泳部のコーチが同窓のジャック・ニクラスを教えていた関係で。すでに初対面を果たしていた。留学中に大学のゴルフ場で1度ゴルフをしたが「この時のスコアは120くらいだった」と告白している。
帰国後、1964年の東京五輪で通訳を務めた後、日本アマにも出場経験のある父がメンバーだった霞ヶ関カンツリー倶楽部(埼玉県)で本格的にゴルフを始めた。

立教大学に復学し卒業後、日本建鐵に入社。仕事を終えて夜8時から11時まで週4回の練習が実り、1967年から2年連続して日本オープンにも出場している。
1975年、31歳の時に(株)ティアンドケイインターナショナルを設立。日本テレビの「ビッグイベントゴルフ」(土曜夜11時~)を含む3局のゴルフ番組に携わるようになる。
この後、上京した倉本昌弘からマネジメントを頼まれたのをきっかけに、牧野裕、小田美岐、平瀬真由美、服部道子、川岸良兼らをサポート。選手からの契約料に依存せず、テレビマッチや機内ビデオのレッスン番組、著作物などから利益を上げる独自のスタイルを構築した点で評価は高かった。
1980年より、日本ゴルフ協会(JGA)の競技、規則、国際などの委員を務め、ナショナルチームの団長、監督を歴任。世界アマの団長を務める傍らボランティアで競技委員を務めた1988年ストックホルム大会における32回に及ぶルール裁定が話題になり、全英オープンのルールズコミッティーのマイケル・ボナラックの依頼を受けR&Aのメンバーに選出される。
その後、全英オープン(1990~2010)、全米オープン(2002~2018)、全米シニアオープン(2005~2017)、マスターズ(2000、2002)のレフェリーを「大きなミスもなく」(本人談)務め、ボナラックトロフィー・アジア欧州対抗マッチでは廣野ゴルフ倶楽部で行われた2002年、ローマで行われた2004年の2大会連続で勝利監督にもなった。
米国留学中にはメジャーリーグのドラフト候補にも
高校1年の頃からゴルフ場の設計にも興味を持ち、カナダカップ開催時の霞ヶ関カンツリー倶楽部のコースレイアウトをどうスケールで写し描き。これを手始めに、相模カンツリー倶楽部、東京ゴルフ倶楽部など30コースもの俯瞰図を写していったという。
1985年から本格的にゴルフコース設計家としても活躍。日本ゴルフコース設計者協会の理事長は2013年から10年間務めた。
日本オープン、日本女子オープン、全米オープン、全米女子オープン、中日クラウンズなどのテレビ解説を長年に渡って務め、新聞、雑誌等にも精力的に執筆。米ゴルフダイジェスト誌『世界のベスト100コース』選定委員も務めた。
2013年には全米ゴルフ協会(USGA)からボランティアで競技に多大な貢献をした個人に贈られるジョー・ダイ賞を受賞している。
最近では小淵沢カントリークラブのリノベーションにも携わっていた。様々な機会に多くの人々と接する姿を見てきたが、老若男女、すべての人々とフラットな立場で話していたことが印象に残っている。
筆者も取材で川田氏に話を聞くことが多かったが、時間と労を惜しまず、常に自らの経験と知識を与えてくれた。特に夕刊紙の筆者連載では様々なエピソードを明かしてくれた。その中でもメジャーリーグのドラフト候補にも上がりながら断念したいきさつは秀逸。
キャッチャーをしていた練習中に4番バッターのファウルチップを局部に受け1週間入院するアクシデント。その頃から団体競技よりも個人競技に傾倒していったと、ユーモラスに語ってくれた。
夕刊紙の連載が著名人30人のエピソードを集める形で書籍化される時には、その1人として転載を快く許可してくれた。4月8日、都内の事務所に初版をお持ちした際、お祝いを兼ねて昼食をごちそうになったのが最後になった。
その後体調を崩され入院生活が長期化し、定期的に開かれていた川田さんを囲む夕食会も延期されていて、参加者からも心配する声が上がっていた矢先だった。
筆者としてもまだまだ、話を聞くべきこと、教えを乞うべきことが多かったのに、残念でならない。それはゴルフメディアに携わる多くの人々の、共通の思いに違いない。合掌。(小川朗/日本ゴルフジャーナリスト協会会長)
取材・文/小川朗
日本ゴルフジャーナリスト協会会長。東京スポーツ新聞社「世界一速いゴルフ速報」の海外特派員として男女メジャーなど通算300試合以上を取材。同社で運動部長、文化部長、広告局長を歴任後独立。東京運動記者クラブ会友。新聞、雑誌、ネットメディアに幅広く寄稿。(一社)終活カウンセラー協会の終活認定講師、終活ジャーナリストとしての顔も持つ。日本自殺予防学会会員。(株)清流舎代表取締役。
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