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- なぜキム・ハヌルは米国ではなく日本へ? “スマイルクイーン”を変えた25歳の転機
韓国で25歳にして“ベテラン”と見られたキム・ハヌル。環境を変えるため日本ツアー挑戦を決意し、苦闘と独り立ちを経て初優勝をつかむまでの転機を振り返る。
現在、日本女子ゴルフ界は若手の台頭が著しい。特に2025年は米ツアーでの日本人選手の活躍が目覚ましい一年だった。しかし、渋野日向子が2019年の「全英女子オープン」を制し、現在の黄金世代・プラチナ世代が花開くその直前まで、日本ツアーの人気と実力を牽引していたのは、韓国から海を渡ってきたトッププロたちだった。
なぜ彼女たちは日本を目指し、日本で愛され、そして何を残していったのか。日本女子ゴルフ界が世界で戦える実力をつけた「今」だからこそ、その礎を築き、レベルアップに貢献した韓国選手の足跡と、日本ツアーへの思いを改めて紐解いてみたい。かつての熱狂を知るファンに向けて、そしてこれからのゴルフ界のために、現役・引退を含む5人の選手たちの足跡をたどる。(韓国・ソウル/キム・ミョンウ)

1月下旬、ソウル・狎鴎亭のカフェでキム・ハヌルは待っていた。プレー中も常に笑顔でいる印象が強いことから、韓国のファンがつけた愛称は“スマイルクイーン”。彼女の代名詞でもあるスマイルは、健在だった。日本ツアーで通算6勝を挙げ、2021年を最後に現役を引退した。
「時間って、本当に早いですね」
そう笑いながら、ハヌルは“当時の決断”を振り返った。2011年、12年の韓国女子(KLPGA)ツアーで2年連続賞金女王に輝き、実績も人気も申し分ないはずだった彼女が、2015年から日本ツアーへ主戦場を移した。その決断が、のちに女子ゴルフ人気を牽引する存在へと成長を遂げることになるとは、自身も知る由もなかった。
「私はまだ25歳なのに」韓国での“ベテラン扱い”が嫌だった
転機は2014年だった。韓国ツアーで2011、12年と賞金女王を獲得しながら、13年は優勝1回、14年は2位が5回と優勝争いを重ねたものの、勝ち切れない試合が続いた。
そのとき彼女の心を最もざわつかせたのは、結果以上に“見られ方”だったという。
「2014年当時はまだ25歳。でも韓国で“ノジャン(老将=ベテラン)扱い”されることがすごく増えたんです」
新人選手と優勝争いをすれば、記事のタイトルや内容は決まって「新人の覇気 vs ベテランの老練」と書かれた。書いた記者側に悪気がないことも、どちらかと言えば好意的な表現であることも頭では理解できた。それでも、ハヌルには耐えがたかった。
「私はまだ25歳なのに、って。『私はもう歳を取ったってこと?』って、勝手にそう感じてしまったんです。このままここにいたら、すぐに“引退”が近づくんじゃないかと思って、焦りが芽生え始めましたね」
勝てない焦りと、“終わり”を先に提示される感覚。そこから抜け出すには、環境を変えるしかない。新しい目標が必要だった。
「米国か日本か」イ・ボミ、申ジエの助言で決断

相談相手は日本で戦っていた同年代の選手たちだった。先に日本へ渡ったイ・ボミ、申ジエに連絡し、「日本の舞台ってどう?」と率直に聞いた。返ってきた答えが、背中を押した。
「『日本の環境はすごくいい。他の韓国の先輩たちも本当に一生懸命で、雰囲気がいい』って。だから、私も日本に行かなきゃって決めたんです」
決断に迷いは少なかった。ハヌルは当時をこう振り返る。
「正直、目標が薄れていた時期でもありました。賞金女王も経験して、2年連続で頂点に立った。だから新しい挑戦をしないと、実力が落ちていく気もしていたんです」
行き先は「米国」か「日本」か。当然、米ツアー挑戦も視野にはあった。韓国の賞金女王が米ツアーに行く選択肢は、ごく自然なものでもあったからだ。
前年V試合欠場で「優勝賞金の全額返還」規定が壁に
しかし、この時は条件がそろわなかった。米ツアーQT参加を申し込んだものの、QTの日程が韓国ツアーのディフェンディングチャンピオンとして出場義務のあった試合と重なった。当時の韓国では、前年優勝者がその大会を欠場すると「優勝賞金を全額返還する」規定があったという。
「当時の優勝賞金は約1億2000万ウォン。そんな金額をすべて支払うなんて、現実的に挑戦できないですよね……」
結果的にその規定は後に見直されたが、当時の彼女にとっては大きな壁だった。ならば、近くて時差もなく、食事も合い、友人もいる日本へと自然と足が向いた。
「日本はもともと大好きでした。近いし、時差もないし、日本食も好き。友だちも多いんです。だから“日本に行こう”と」
“初挑戦の日本QT”で涙の理由

ただ、日本行きは“楽な移籍”ではなかった。韓国でのプロデビューは2006年。2部の「ドリームツアー」から参戦しており、韓国では予選会を経験したことがなかった。日本でもQT出場そのものが初めてだった。
「予選会というのがゴルフ人生で初めてのことで、1次から本当にギリギリのゴルフをしていたのを思い出します。初日が悪くて順位も下のほうで、『1次で落ちたらどうしよう。恥ずかしい』って、緊張でずっと苦しかったですね」
2014年、なんとかファイナルQTまで勝ち上がり、試合を終えてクラブハウスへ戻る途中、彼女は泣いた。周囲の関係者が「落ちた」と勘違いするほどだった。QTには当時ライブスコアがなく、メディアも結果が分からなかった。
「泣いていたから“落ちたんだ”って思われたみたいです。でも違うんです。あまりに緊張して、やっと終わったという安心感で泣いたんです」
その涙は、新天地で生きる覚悟の涙でもあった。
慣れない日本ツアー1年目「一時は帰国も考えた」
15年の開幕戦「ダイキンオーキッドレディス」で日本ツアーデビュー。舞台は沖縄。このときの記憶が最も鮮明だという。
「沖縄に行くのは初めてで、あの温かい空気や匂い。いまも鮮明に覚えています。会場の雰囲気がすごく良かったです。でも試合は、風が強くて雨も降って……洗礼がすごかった(笑)」
それでも予選は通過。4日間を戦い抜いて通算2オーバーの37位タイ。手応えがゼロではないが、日本で戦う難しさを思い知った。その後も予選通過は続くが、トップ10に届かない。優勝争いにも絡めない。精神的にはどん底だった。
「8月の『CAT Ladies』を終えてから2試合休んで韓国に戻ったんです。なかなか日本に適応できなくて、韓国に帰ろうかなと思っていた時期でした。でも9月の『マンシングウェアレディース東海クラシック』までエントリーを済ませていたので、これでダメなら帰国しようって……」
ハヌルにとってはすべて初めて訪れる場所。慣れない土地や環境に戸惑い、日本語もままならない。韓国の選手たちとは試合会場で会っても、親しい友人という関係ではなかった。“楽しむ”ことをどこかで忘れていた。
両親と離れる決断、人生初の独り立ち

そこでハヌルは一つ決断する。
「アボジ(父)とオモニ(母)に『あと2試合だけ出たら、もう日本には行かない。だから最後は2人とも日本について来ないでほしい。1人でやってみる』って伝えたんです」
一人で日本に向かい、試合に出ることは人生で初めてだった。
メジャーの「日本女子プロゴルフ選手権大会コニカミノルタ杯」。ハヌルはここで初めて、一人で練習に入った。コースを読み、必要なクラブや練習メニューも自分で決めた。誰かに“させられる練習”ではなく、“自分で組み立てる練習”が、あまりにも楽しかったという。
「これまで父が教えることをこなすばかりでした。それが一転して、誰も教えてくれる人がいないから自分でやらなきゃいけない。すべて新鮮でした。ユーティリティーを使うコースが多いからもっと練習しなきゃ、とか、グリーンが大きいからロングパットの練習をたくさんしよう、とか。考えながらの練習が本当に楽しかったんです」
当時、全美貞のコーチにこう言われたという。
「練習する姿がすごく楽しそうに見えるけれど、気のせい?」
ハヌルは笑ってこう振り返る。
「ずっと父に“やらされていた”から、楽しくないのが表情に出ていたんでしょうね」
両親がいる重圧から解放されたからか、結果は5位タイ。メジャー大会で日本ツアー参戦後初のトップ10入り。それが彼女の感覚を変えた。
「“私も日本でやれるかもしれない”って、自信が生まれました。それが一番大きかったです」
そして、その勢いのまま迎えたのが翌週の「マンシングウェアレディース東海クラシック」。ハヌルはこの大会で通算12アンダーをマークし、日本ツアー初優勝を飾る。しかも、まだ“独り立ち”の最中だった。
「優勝した試合に両親は来られなかったんです。だって、私が“来ないで”って言ったから(笑)。両親がいないときに結果が出たもんだから、皮肉なことにそのあとも親は日本に来られなかった。でも、あの“1人でやれた”感覚が、私の日本での始まりでしたね」
(後編へ続く)
取材・文/キム・ミョンウ
1977年生まれ、大阪府出身の在日コリアン3世。新聞記者として社会・スポーツ取材など幅広い分野を担当。その後、編集プロダクションを経てフリーに転身。2010年、サッカー北朝鮮代表の南アフリカW杯出場決定後、日本メディアとして初めて平壌で代表チームを取材し、『Number』に寄稿。2011年から女子プロゴルフの取材も開始し、日韓の女子プロとも親交を深める。現在は女子ゴルフとサッカー、アスリートインタビューなどを中心に雑誌やWEB媒体に寄稿。著書に「イ・ボミ 愛される力」(光文社)。
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